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これまでの記事で書き落としたことを、「努力」とパターナリズムと「自己責任」からまとめる,2022年12月5日

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注意

 これらの物語の重要な展開を明かします。
 特に、『今日から死神やってみた!』第2作まで、『二重螺旋の悪魔』、『ソリトンの悪魔』にご注意ください。

漫画

『鋼の錬金術師』
『銀魂』
『ドラゴンボール』
『ドラゴンボール超』
『しょせん他人事ですから〜とある弁護士の本音の仕事〜』
『ふたりソロキャンプ』
『このヒーラー、めんどくさい』

テレビアニメ

『銀魂』
『鋼の錬金術師』(2003)
『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』
『ドラゴンボール』
『ドラゴンボールZ』
『ドラゴンボール超』
『ドラゴンボールGT』

アニメ映画

『ドラゴンボール超 ブロリー』
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

実写映画

『ターミネーター』
『ターミネーター2』
『ターミネーター3』
『ターミネーター4』
『ターミネーター・ジェニシス』
『ターミネーター・ニュー・フェイト』

小説

『今日から死神やってみた!イケメンの言いなりにはなりません!』
『今日から死神やってみた!あなたの未練断ち切ります!』
『二重螺旋の悪魔』
『ソリトンの悪魔』
『サイファイ・ムーン』

はじめに

 本日は、書き落としたことを雑多にまとめるつもりが、いつの間にか繋がるようになりました。
 パターナリズムと「自己責任」と、「努力」の定義についてです。

パターナリズムと「自己責任」の両立

2022年12月5日閲覧

 パターナリズムは「善意による強制」なので、「余計なお世話」、「おせっかい」で、「自己責任」は一見それと逆だという意見もあるようですが、私はそれが両立するところがあると推測しています。
 パターナリズムが「相手のために善意で何かを強制する」ので、「断られても、あるいは頼まれなくても助ける」、「一方的に了承を得ずに利益を与える」のでしょうが、「利益」の定義が主観的になり、現代社会は何が利益か曖昧になってしまうところもあるので、裏目に出て損害に変わった場合は、「損害に関しては頼まれても助けない」、あるいは「こちらが与えた利益を損害に変えるそちらが悪い」といった「自己責任」の主張に変わってしまうのではないか、と推測しています。

誹謗中傷された被害者の家族の「慰め」

 『しょせん他人事ですから〜とある弁護士の本音の仕事〜』(以下『しょせん他人事ですから』)では、家庭と仕事の区別の重要さや、それを踏まえたパターナリズムと「自己責任」の両立が見て取れます。
 ある家庭の女性が、ネットで有名になったのを、それを知る「ママ友」の嫉妬によりネットで誹謗中傷されて、訴えるところから始まります。
 主人公の弁護士は「僕はセラピストではないので、ちゃんと説明してください」などの、一見被害者に冷たい対応をしていますが、「しんどいんですよ」、「僕はあなたの意思を尊重します」、「(加害者の)木下さんは全部何かのせいにしていました」など、分かる範囲で正しい事実や推測を述べており、結果的に依頼人に「全部本当のことを言っていた」と評価されました。
 「他人事」という掛け軸までかけている主人公の、余計な感情を交えず、事実や正しい推測に徹した姿勢が、仕事として過不足のないように描かれています。
 今作では、一見情を持っているような、被害者の家族の方が、かえって被害者を傷付けている様子があります。
 「中傷されているネットなんて見なければ良い」、「終わったね。ネットもこれからは」といった曖昧な推測や意見を述べており、ネットそのものを楽しみたかった被害者に「今は全てがうるさい」とまで思わせています。

善かれと思って傷付ける推測や意見

 この「ネットで傷付けられた事実に、その原因を被害者のネット利用そのものなどにする余計な推測や意見を交える」のは、ある種のパターナリズムと「自己責任」の逆説的な両立がみられます。
 この被害者の家族は全く冷たいわけではなく、夫は子育てを手伝っているらしい様子もあり、加害者が同じマンションにいたために暮らしづらくなった被害者が実家で暮らしたり引っ越したりするときに、実家の親戚なども助けてはいました。
 しかし、「ネットなんてするから」という余計な推測や意見を交えるのは、家族がネットに取り組んでいることが個人的な主観で不愉快なので、「そんなことをしたあなたの責任だ」と考えている可能性があります。
 また、被害者もそれを「慰めてくれるのはわかる」とみなしてはいます。
 つまり、被害者の家族は、被害者の「困っている」ところに関して、「助ける」つもりで家事や引っ越しや生活の手伝いはしているものの、それでネット利用に関しては気に入らないところがあるので、「そんなことをするせいだ」と「助言」するつもりで、「余計なお世話」、「おせっかい」と「自己責任」の主張を両立させていると言えます。
 皮肉にも、加害者の家族は、加害者の行いについて、「ひとごとじゃないから」と対処に取り組むつもりはあります。被害者の家族の方が、むしろ突き放してしまったところもあるかもしれません。
 ネット利用そのものが悪いのか、中傷を気にしなければ良いのか、といった法律と異なる家庭の倫理は、曖昧な推測を含むため、利益が損害に変わってしまうところがあり、パターナリズムと「自己責任」が両立してしまうかもしれません。

何故か優しいファンタジー世界

 『このヒーラー、めんどくさい』では、ある意味で中途半端な優しさが、パターナリズムと「自己責任」のとっさの両立を生み出しています。

 今作はファンタジーの世界でゲームのような怪物との戦いが描かれますが、ヒーラーの少女が、戦士に余計な言葉をかけて不愉快にさせることが多く、それがギャグになります。
 しかし、ギャグ漫画なので基本的に死者が出ないようですが、その大きな原因として、そもそも本気で怪物達も争う意欲があるのか疑わしいところがあります。
 キノコの怪物は人間を「蹂躙する」と言っておきながら、弱い戦士と戦って勝つと「技が腹に入っちまったからな。すまねえ」と謝っています。他にも、クマのような怪物が戦士と戦うときに、ヒーラーと口論になると何故か戦いをやめて仲裁に入っています。
 夜中に怪物のいそうなところで騒いで見つかっても、怪物は「さっきからうるせえぞ、何時だと思ってるんだ!」と注意するだけで、人間を襲うつもりがみられず、昼間なら自分の住処の近くで騒いで良いかのような寛容さです。
 このように、争いを優しさで台無しにするギャグは『銀魂』などにもありますが、その途中で、パターナリズムと「自己責任」の両立があります。

不充分なパターナリズムの失敗を、拒絶した相手のせいにする

 ヒーラーも、治すより戦うのが戦士より向いているらしいのですが、敵対しているような怪物のいるところに潜入して、ヒーラーが怪物に接近したときに、戦士は「そいつから離れろ!」と叫びました。
 すると怪物達は、自分達からヒーラーを戦士が守ろうとしているために、自分達に「近寄るな」と言ったと認識して、逆らってヒーラーを攻撃しようとしたのですが、ヒーラーになぎ倒されてしまいました。
 戦士は「だから離れろって言ったのに」と、むしろ怪物の心配をしていたのです。
 つまり、怪物の方を身内に攻撃されないように心配するほど優しかったのですが、これは中途半端なパターナリズムと「自己責任」が両立しています。
 怪物の方を人間が心配して、怪物にとってもそれが予想外だったのですから、これは「相手の意思に反する善意」、パターナリズムと言えます。しかし、戦士は自分が怪物を助けたい意思があるならば、「俺はお前達を助けたいから、その危険な女(ヒーラー)から離れてほしい」と正確に伝えるべきでした。
 もちろんこの類の物語は、不正確な方が勢いのあるために「格好良い」表現として、誤解を招く場合もあり、パターナリズムを正確に伝えるのが難しいとも言えます。しかし、それにしても、本当に助けたいならば、「そのヒーラーから逃げろ」と言うべきでした。
 敵としてはきわめて優しいものの、助けとしては不正確です。
 そのパターナリズムを実現するための中途半端な表現が相手に誤解されて失敗すると、「離れろとは言ったのだから、従わなかった方の責任だ」と、「自己責任」の主張にしているとも言えます。
 つまり、「余計なお世話」、「おせっかい」であるパターナリズムが、僅かな誤解で、真意が伝わらなかった相手の「自己責任」だとする主張にコミカルに繋げているのです。

趣味ならば成り立つ「損害を楽しめ」という「自己責任」 

 『ふたりソロキャンプ』では、本来1人でいるのを楽しむ「ソロキャンプ」を、主人公の30代男性が、若い女性に指導する羽目になったところから始まります。
 このとき、過酷なところもあるキャンプについて、主人公は女性に「孤独(ソロ)を楽しめ」と主張しています。
 たとえば、「ソロキャンプは楽しみも独り占め出来る」という言葉には、実際にそれを出来るかは問わずに魅力が感じられます。
 これについては、「ソロキャンプという選択肢をしたからには、孤独な損害を利益に変えろ」と主張している意味で、強引な指導をするパターナリズムと、相手の選択に伴う損害を正当化する「自己責任」が両立しています。
 しかし、ソロキャンプで寂しさがあるのは当たり前であり、趣味の問題でもあるので、これは確かに「自己責任」だとしても、たいして冷たいとは、私には思えませんでした。

職業選択ならば全てが「自己責任」になるわけではない

 ただし、企業に入るときに、「うちに入ったからにはそのやり方に従え。嫌なら辞めろ」とだけ主張して、様々な過酷な労働を強いて、「そんな企業を選んだお前の責任だ」で済ませるのは、さすがに許容出来ない「自己責任」だと考えます。
 ソロキャンプでの「孤独」、「寂しさ」は、趣味の選択に伴う当然の損害なのであり、それが悪いとも限りませんが、ある企業に入ることを選択しただけでその企業の方針に全て従い、労働基準法などで守ってもらえないのは、「選択に伴う自己責任」とはみなせません。
 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、「自由な服従」という説明があったと記憶しています。「どの企業に入るかは自由だが、入ったあとは命令に従う不自由しかない。辞める自由があるだけ」という複雑な論理が、「自由な服従」として、不自由の正当化をするパターナリズムと「自己責任」を両立させてしまうのかもしれません。

パターナリズムと「自己責任」の選択が、少しずつ混ざり合う

 『銀魂』で、パターナリズムと「自己責任」が両立する例を幾つか挙げましたが、そもそも序盤で新八がその選択を迫られています。
 借金で苦しむ侍の姉の妙が、父の遺した道場を売らずに残そうとするあまりに、不道徳な仕事をさせられるのを、新八は止められませんでした。会ったばかりの銀時に尋ねられても、「知りませんよ。勝手に出て行ったんですから」と突き放しましたが、「器用に」なれずに、妙を連れ戻そうとしました。
 しかし、借金取りの船に強引に乗り込んだため、「こんなことをして道場がただで済むと思うな」と言われて、「俺は姉上が笑っている顔を見たいから、泣かせるぐらいなら道場なんて要らない」と言い切りました。
 ここでは、本人の意思に反して、無理矢理助けるパターナリズムを、本人の意思を尊重して突き放す「自己責任」より優先したようですが、少し「自己責任」が重なる危険性もありました。
 何故なら、妙を不道徳な仕事に就けさせないという利益、「救い」はあるものの、代わりに借金のために「道場は潰しても良い」と独断で決めてしまい、それが妙の「笑顔」のためだとするパターナリズムと、妙が守りたいものを部分的に強制的に捨てる突き放しが両立しています。
 つまり、借金という困った状況において、利益だけを与えることは出来ないため、借金取りの選んだ仕事から助ける利益と、道場は潰される損害を同時に与えて、それを正当化してしまうわけです。
 ここでは銀時が船を落として、騒ぎを起こして借金取りを警察に捕らえさせたために道場も無事でしたが、新八の選択は難しいところがありました。
 利益を一方的に与えるパターナリズムと、損害を与えて相手の選択のせいにする「自己責任」が、少しずつ混ざり合ってしまうのです。

ナショナリズムとパターナリズムは、「恵まれた人間に義務を与えている」つもりかもしれない

 パターナリズムと「自己責任」の両立の例として、私は『ターミネーター4』のジョンの抵抗軍の展開を何度か挙げました。

2022年12月5日閲覧

 機械の反乱により世界が壊滅する中で、未来から来た人間やターミネーターの知識を持つジョンが世界を救うために、人類をまとめ上げようとするのが『ターミネーター4』です。
 しかし、「これを聞いている君は抵抗軍の一員だ」と、あらゆる人類をまとめ上げたいジョンの善意が、英語を話せる人間を優先してしまう、ジョンの知らない機械と人間の結合したような存在は味方か分からないなどの、不完全なところがあります。また、ラジオで呼びかける以上は、ある程度の機械の知識があるかそういった仲間が近くにいる人間でなければ、抵抗軍には入れません。
 つまり、ジョンの「抵抗軍に入れることで人類をまとめて助けたい」善意は、英語やラジオなどの、あらゆる人間に通じるとは限らない条件を前提としているため、財産や言語で人間の幸不幸を分断してしまう危険性があります。
 ジョンもそうせざるを得ず、悪意はないでしょうが。
 しかしジョンは、自分と英語やラジオの能力が共通した人間に、一方的に利益を与えて甘やかしているのではなく、むしろ責務も同時に与えているつもりだったかもしれません。
 「君達は重要な人間だ。それを君達は分かっていない」とも話していましたが、それは「君達は確かに不幸だが、これを聞いているだけで少なくとも抵抗軍と同じ英語とラジオの知識には恵まれている。そうでない人間を助けるためにも、君達は抵抗軍に入って機械軍を倒すべきだ」という意味かもしれません。
 つまり、「英語とラジオの使える人間を優先してまとめ上げる」ジョンの英語ナショナリズムは、決して言葉の通じる人間を優遇するだけの甘やかしではなく、むしろ「恵まれた人間はそうでない人間のために尽くすべきだ」、「ノーブレス・オブリージュ」の精神もあったかもしれない、ということです。
 ナショナリズムは、身内に権利だけでなく義務も与えるからこそ、強固にまとまるのかもしれません。
 しかし、それは言葉の通じる人間を優遇するときに、「同時に義務も与えているのだから均衡がある」という正当化や美化もしてしまうかもしれません。それが、強引な善意、パターナリズムにもやはり繋がる危険性があります。
 

天使やロボットに年齢はあるか

 ここで、「悪魔」と「努力」の定義から、パターナリズムと「自己責任」の繋がりを考えます。そこで、「天使に年齢はあるか」という疑問を扱います。
 天使を扱った書籍を読みますと、キリスト教の天使は年齢の概念を超越した、加齢を感じさせないために子供などの姿をしていることが、歴史の中で多くなったようです。
 その割に、天使から変化したとされる悪魔が年老いた姿で描かれるのは原因がよく分からないそうですが。
 SFのロボットに加齢を感じさせる要素が少ないのを連想させます。
 ロボットは宗教に関わる要素も多いようなので、天使とロボットは親和性があるかもしれません。
 たとえば、『二重螺旋の悪魔』では、「悪魔」とは別なものの、ある「宗教的存在」が幼い体型のまま年老いていく悲惨な末路になっています。
 『ソリトンの悪魔』では、「天使」とも呼ばれる生命体が、コンピューターやロボットのように無感動なところがあり、その一部が人間により暴走して、「悪魔」になりました。
 「悪魔」や「天使」は、コンピューターやロボットにこそ、その起源を解き明かす鍵が隠れているかもしれません。

フリーザは「努力」しているか

 『ドラゴンボール超』で疑問に思っていたある点から、「努力」と「悪魔」について考察します。

 『ドラゴンボール超』では、『ドラゴンボール』で進んだ強さのインフレーションに、かつてのキャラクターが追い付く展開がみられます。
 その中で、過去のキャラクターとして突然大幅に強くなったのがフリーザです。
 『ドラゴンボール』原作中盤で猛威を振るったものの、途中で死んだため、「フリーザ第一形態<フリーザ第二形態<ネイルと同化したピッコロ<フリーザ第三形態<フリーザ第四形態<超サイヤ人の孫悟空及び未来のトランクス<未来の人造人間17号及び18号<現代の人造人間17号及び18号<人造人間16号及びセル第一形態<セル第二形態<超ベジータ<セル完全体<超サイヤ人2の孫悟飯<初期の魔人ブウ<超サイヤ人3の悟空<「悪」の魔人ブウ<潜在能力を解放した孫悟飯<それを吸収した魔人ブウ<超ベジット<超サイヤ人ゴッドの悟空」というインフレーションに置いて行かれています。
 ところが、復活したフリーザは「生まれながらの天才だったので今までトレーニングなどしたことはなかった。初めてすることで、悟空より強くなれる」と主張して、ゴールデンフリーザという変身能力を手に入れ、一時的に超サイヤ人ゴッドを上回る超サイヤ人ブルーの悟空も超えていました。
 何故ここまで何段階も飛ばした強さをフリーザが手に入れたのか、かなり気になります。悟空やベジータは、瀕死の重傷を負って回復する度に強くなるサイヤ人の体質や、「精神と時の部屋」、重力室などの設備がありますが、フリーザに何故そこまで強くなれたかは未だ曖昧です。

フリーザとダゴン102

 これについて私は、『二重螺旋の悪魔』のダゴン102を連想します。
 『二重螺旋の悪魔』は、人間のバイオテクノロジーの暴走によって、生物の遺伝子から解放された怪物が増殖して人間を滅ぼそうとする物語です。
 クトゥルー神話をモチーフに名付けられたその怪物「C」=「GOO(ジー・ダブル・オー)」は、爬虫類のような体や甲殻類の殻や金属を含むグロテスクな姿ですが、「GOOから見れば人間の方が吐き気を催すかもしれない」、「お互い様」と説明されました。ダゴン102は、主人公と対立する因縁のある個体です。
 フリーザが他の種族を侵略するのはともかく、部下の、地球人に近い容姿のサイヤ人と対立するのは、「お互い様」に思えるところがありました。

2022年12月5日閲覧 
 サイヤ人の中で侵略などをしなかった悟空は、「サイヤ人も罪のない人々を殺したから滅びた」とフリーザに認めています。また、近年の映画『ドラゴンボール超 ブロリー』では、悟空の父親で侵略をしていたバーダックが、「フリーザのことが好きなサイヤ人などいないように、フリーザもサイヤ人をそう思っている」と認めています。
 そして『超 ブロリー』では、サイヤ人の中から少しずつ「悪」でなくなったベジータが、フリーザを「悪魔」と呼んでいます。
 「人間」と「悪魔」が対立するときに、「お互い様」と呼べる、根拠の乏しい対立をするのが、人間とGOO、サイヤ人とフリーザで似ています。
 


『二重螺旋の悪魔』のダゴン102の「教育」や「努力」

2022年12月5日閲覧

 これは以前記事で書きましたが、ここで気になるのは、GOOには「努力」の概念が少ない可能性があるという私なりの考察です。
 GOOは金属だけでなく、機械と融合する能力があるらしく、生まれて直ぐに情報を読み込むロボットのような能力があるため、教育の必要がなく、子供の頃から働いているそうです。というより、「若い」という概念はあっても「子供」という概念はない可能性が指摘されています。
 『二重螺旋の悪魔』劇中では、「人間も中世の頃までは子供も働いていたそうだ」、「自分は小さな頃から受験勉強をしていた」という人間の軍人の台詞があります。
 これは『資本論』での、大人の労働者の給料が自分の生活、子供の教育、自分自身の新しい技術などに対応するための教育の3種のために使われるというのを連想しました。
 GOOは3番目と2番目の教育を簡略化した、労働力として理想化された人間の象徴なのかもしれません。「努力」して何かを覚える必要がない代わりに、「何も知らない子供」として守ってもらえる、いわゆるモラトリアムの概念がないのかもしれません。
 フリーザも、子供のような言動を父親にはしていますから、「子供の頃から働いている」のと「努力しなくても働ける」ことが対をなしているのかもしれません。
 フリーザは「戦闘力」という数値を『ドラゴンボール』シリーズに持ち込むきっかけの軍の技術を広めた存在なので、機械に近い、効率的な労働力を備えた人間の象徴なのかもしれません。
 しかし、フリーザとダゴンがのちに陥った状況の近さが、「努力」の意味、そしてゴールデンフリーザの原因に繋がる可能性を考えました。
 

機械のような生物でも「苦しみ」により「努力」するかもしれない

 フリーザは未来のトランクスに倒されたあとの『ドラゴンボール超』の「あの世」で、死ぬことも出来ずに意識を保ったまま閉じ込められています。原作の生まれ変わる設定や、死後1年までしかドラゴンボールで生き返れない設定は曖昧ですが。
 一方ダゴン102も中盤で主人公の人間の深尾直樹に敗北したあと、その頭脳を記録されて、複製されて電脳空間で尋問され続けています。主人公のミスで別の生物に乗り移ったり、別の存在を復活させようとしたりする、因縁の間柄です。
 それぞれ、自分の機械のような能力で解決出来ない苦しみがあるらしく、フリーザもダゴンも主人公を激しく恨んでいます。
 ちなみに、フリーザは魂ではないものの、体を分断されて倒されたので、生き返ったときはバラバラでした。
 しかし、この苦しみがかえって、それぞれにとって未知の成果や能力に繋がったとも取れます。
 ダゴンは主人公が戦地で情報を得るために持参した記録媒体を利用して、コンピューターならではの新しい体で復活していますし、フリーザは主人公に地球の地獄に送られたことで、かえって瞑想のように強くなっています。
 ダゴンは特に、日本語を必死に電脳空間で学習したり、見えない外の様子を推測したりしています。フリーザも、あの世から知らなかった現世の様子を彼なりに動揺しつつ推測することがあります。
 「努力」の定義を「苦しみと共に上げた能力」とするならば、それぞれ機械のようで普段は必要なかった苦心を、敗北を経て味わうと共に、それでしか得られない能力を活かしたとも言えます。
 「天使」に年齢の概念がないために成長に伴う能力がないとすれば、「悪魔」のような、機械のようなフリーザやダゴンも、トレーニングや教育の必要がない、努力の必要がない状態でも、人間に敗北する苦しみを乗り越えた先に、良くも悪くも新しい能力を手に入れる、「努力」があるのかもしれません。
 そう考えますと、「努力」が必ずしも良いものなのかも難しいのですが。

「怠惰」の悪魔とターミネーター 
 

 『今日から死神やってみた!』第2作では、「死神」が死者の魂を霊界に導くのを手伝う「見習い」となった女子中学生の伊織が、勉強の余裕がなくなったところが描かれています。
 勉強の「努力」をしたくなくなった生徒が次々と、「怠惰」の能力を持つ悪魔の罠にかかっていますが、その「悪魔」にも分裂の能力がありました。
 「悪魔」が分裂という、人間に出来ない、どちらかと言えば機械に近い能力を持つのが、私にはどことなく『二重螺旋の悪魔』を連想します。
 ちなみに私は、『二重螺旋の悪魔』に『ターミネーター』シリーズも似ていると考えています。作者の梅原克文さんも、『サイファイ・ムーン』のあとがきで、自作を「サイファイ」に分類する上で、理想的なその分野の作品として、当時の『ターミネーター』、『ターミネーター2』までを挙げています。
 『ターミネーター』シリーズも、『2』で液体金属のT-1000が腕を4本に増やしている様子があり、『ターミネーター3』ではT-Xが他の機械やターミネーターを操り、『ターミネータージェニシス』ではT-1000が自分の一部を利用して発信や他のターミネーターの起動に用いています。『ターミネーター・ニュー・フェイト』では分裂するターミネーターもいます。
 「悪魔」と機械が、意識を伴う分裂という通常の人間に出来ないことをすることで、宗教や労働や「努力」に繋がる議論の余地のある展開をもたらすのかもしれません。
 そもそも、『ターミネーター』シリーズは機械任せにする人間の「怠惰」こそ悲劇の始まりかもしれませんし。

「怠惰」の悪魔がする「努力」

 なお、この悪魔は「怠惰」の象徴として分裂したらしいのですが、それにしても、「色欲」の悪魔と同じく、身を隠す「努力」はしているとは言えます。分裂した相手の予想外の状態に驚くことから、連絡し合えない苦しみもあるかもしれません。
 伊織に味方する「死神」が、気配を消す「努力」をしていましたが、その意味で敵も同じでした。

2022年12月5日閲覧

 なお、『鋼の錬金術師』原作の「七つの大罪」の名を持つホムンクルスも、「怠惰」のスロウスを除けば、人間を見下すことはあっても、人間社会で目立たないように忍耐の精神はありました。
 2003年のアニメ版では、「怠惰」のスロウスが原作と全く別の存在として、やはりかなり上手くごまかしています。
 フリーザも、『ドラゴンボール超』アニメ版で復活した瞬間だけ悟空に探知されているので、実はその直後から気配を調整したかもしれません。ダゴンも主人公から身を隠しています。
 『ターミネーター・ニュー・フェイト』では、本来善意のなかったはずの機械が、人間に近付く自己判断をするうちに、元の命令などを超えたある「心」を手に入れたので、それはそれで「努力」かもしれません。ただ、決して完全な「良心」と呼べるか曖昧な冷たさもあります。
 「努力」と離れた機械のような能力を持つ「悪魔」、あるいは機械そのものでも、分裂の苦しみや気配を消すなどの困難さから、「努力」の概念はあるかもしれません。
 

「努力」は、「生死」すら超えた存在にも独特の「苦しみ」から発生するかもしれない

 また、ダゴンとフリーザは「死」を超越したところがあります。
 ダゴン102は、倒されてもその頭脳を記録され、無数に複製されて閉じ込められて尋問を繰り返されています。
 これは、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』における渚カヲルを連想します。
 そしてフリーザも、『ドラゴンボール』原作で殺されたあと、地球に対応する「あの世」の地獄にいますが、『ドラゴンボールZ』、『ドラゴンボールGT』、『ドラゴンボール超』でそれぞれ異なります。『Z』では父親のコルドや、のちに死んだセルなどと共に体を保った地獄におり、『GT』ではあの世の混乱でセルだけと共に地獄にいました。『超』では、花畑のような空間で「私にとっては地獄」のところに閉じ込められていました。
 いずれにせよ、フリーザは魔人ブウと異なり生まれ変わる様子がないため、逆に死ぬこともなく永遠に閉じ込められる苦しみの可能性があります。

2022年12月5日閲覧

 『ドラゴンボール』のフリーザと『新世紀エヴァンゲリオン』のカヲルの似たところを、以前の記事で幾つか挙げました。

 カヲルは「僕は定められた円環の中で生き続けるしかない。消せるのは真空崩壊だけ」と話しており、量子力学的な意味はいまひとつまだ分かりませんが、フリーザも、破壊神の「破壊」や全王の「消滅」でしか消せない「あの世」の魂の状態で、かえって苦しいため、不老不死の願いをやめたようです。
 フリーザは『ドラゴンボール超 ブロリー』で、ブロリーによる、自分も含めた地球の危機を楽しむような様子があり、『超』アニメ版でも自分の宇宙が消されそうでも好き勝手に振る舞い、戦いのルールから敗北する危険を理解しつつジレンを殺そうとしたことがあります。
 ダゴンも「みんな死ぬ」という口癖で、自分も含めた際限のない破滅を自暴自棄のように引き起こそうとしていました。皮肉にも、それにより人類文明が滅べば、別のところに複製されて保存された自分の人格も全て破壊されて自分が本当の意味で「死ねる」と考えたかもしれません。
 そして、主人公の人間の深尾も、終盤では別の意味で、自分が「分裂して死ねなくなる」危険を恐れています。
 フリーザの宿敵となった悟空は、何度か死んでいるものの、それを楽観視し、破壊神に完全に消されそうになったり、並行世界に来たときに、敵もろともその世界を全王に消させてしまい、その世界で既に死んであの世にいたであろう自分の魂も消したことになります。
 キリスト教の天使は、明らかに生死を超越しているでしょうが、悪魔にもそれに通じるかもしれません。
 『ソリトンの悪魔』の「悪魔」と「天使」も、ほぼ不死身の体でした。
 しかし、『ソリトンの悪魔』の「天使」は「悪魔」を殺す苦しみの中で少しずつ人間の何かを学んだようです。
 フリーザも、復活して悟空との戦いを通じて、何かが変化しています。
 カヲルは、元々生死を超越して達観したような、悪く言えば浮世離れしていましたが、シンジとの接触で涙を流すなどを経て、最終的に人間となって農業をするらしい様子があります。何かの「苦しみ」が彼を変えたようです。
 ダゴンは、変われないままだからこそ破滅したのかもしれません。
 『今日から死神やってみた!』の死神なども、主人公の人間に接して、彼らなりの「苦しみ」を能力に変化させているかもしれません。

「天使」や「悪魔」の労働への不満

 なお、『ソリトンの悪魔』の「天使」は、コンピューターのような精神で、未知の生命体に遭遇した個体がその情報の処理を最優先でさせられるのに不満を言わないのですが、『二重螺旋の悪魔』の「悪魔」の社会には労使紛争の概念があります。
 機械のような生物でも、不満を言うかの差異はあるようです。

「努力」とパターナリズム

 ただ、「努力」についてと、パターナリズムについての話題に繋げますと、「この苦しみを力に変えろ」という主張こそ、パターナリズムと「自己責任」を両立させてしまうかもしれません。
 現代日本で「自己責任」という言葉は、「努力が足りない」といった意味合いも多そうですが、企業などで、「この困難を乗り越えて成長しろ」、つまり「損害を利益に変えろ」という主張が、パターナリズムと「自己責任」の逆説的な両立に繋がるかもしれません。
 パターナリズムは、現代の法律学では、子供や老人や病人などの、自立出来ない人間を守るために自由を奪うのは、「弱いパターナリズム」として許されて、教育もその一種のようです。
 しかし、国家が国民に、企業が社員にまでそれを行うのは、「強いパターナリズム」として法律的に問題視されるようです。
 「今の社員や国民は苦しみを力に変える行動、つまり努力が足りない。こうして苦しめるのが彼らの成長のためだ」というのが、現代日本の「善意での強制」、「余計なお世話」、「おせっかい」であるパターナリズムと、「自己責任」の両立を生み出しているかもしれません。

まとめ

 そのつもりはなかったのですが、パターナリズムと「自己責任」の両立と、「苦しみから生み出す能力」という「努力」の定義に、繋がりがあるらしく、今回はまとまった記事になりました。

 

参考にした物語

漫画

荒川弘(作),2002-2010(発行),『鋼の錬金術師』,スクウェア・エニックス(出版社)
空知英秋,2004-2019(発行期間),『銀魂』,集英社(出版社)
鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)
鳥山明(原作),とよたろう(作画),2016-(発行期間,未完),『ドラゴンボール超』,集英社(出版社)
原作/左藤真道,作画/富士屋カツヒト,監修/清水陽平,2022-(未完),『しょせん他人事ですから〜とある弁護士の本音の仕事〜』,白泉社
出端祐大,2019-(未完),『ふたりソロキャンプ』,講談社
丹念に発酵,2020-(未完),『このヒーラー、めんどくさい』,KADOKAWA

テレビアニメ

藤田陽一ほか(監督),下山健人ほか(脚本),空知英秋(原作),2006 -2018(放映期間),『銀魂』,テレビ東京系列(放映局)
水島精二(監督),會川昇ほか(脚本),2003-2004,『鋼の錬金術師』,MBS・TBS系列(放映局)
入江泰浩(監督),大野木寛ほか(脚本),2009-2010,『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』,MBS・TBS系列(放映局)
内山正幸ほか(作画監督),上田芳裕ほか(演出),井上敏樹ほか(脚本),西尾大介ほか(シリーズディレクター),1986-1989,『ドラゴンボール』,フジテレビ系列
清水賢治(フジテレビプロデューサー),松井亜弥ほか(脚本),西尾大介(シリーズディレクター),小山高生(シリーズ構成),鳥山明(原作),1989-1996,『ドラゴンボールZ』,フジテレビ系列(放映局)
大野勉ほか(作画監督),冨岡淳広ほか(脚本),畑野森生ほか(シリーズディレクター),鳥山明(原作),2015-2018,『ドラゴンボール超』,フジテレビ系列(放映局)
金田耕司ほか(プロデューサー),葛西治(シリーズディレクター),宮原直樹ほか(総作画監督),松井亜弥ほか(脚本),鳥山明(原作),1996 -1997(放映期間),『ドラゴンボールGT』,フジテレビ系列(放映局)

アニメ映画

長峯達也(監督),鳥山明(原作・脚本),2018年12月14日(公開日),『ドラゴンボール超 ブロリー』,東映(配給)
庵野秀明(総監督・脚本),鶴巻和哉ほか(監督),2021,『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』,カラーほか(配給)

実写映画

ジェームズ・キャメロン(監督),ジェームズ・キャメロンほか(脚本),1984,『ターミネーター』,オライオン・ピクチャーズ(配給)
ジェームズ・キャメロン(監督),ジェームズ・キャメロンほか(脚本),1991,『ターミネーター2』,トライスター・ピクチャーズ(配給)
ジョナサン・モストゥ(監督),ジョン・ブランカートほか(脚本),2003,『ターミネーター3』,ワーナー・ブラーズ(配給)
マックG(監督),ジョン・ブランケットほか(脚本),2009,『ターミネーター4』,ソニー・ピクチャーズエンタテイメント(配給)
アラン・テイラー(監督),レータ・グロリディスほか(脚本),2015,『ターミネーター新起動/ジェニシス』,パラマウント映画(配給)
ティム・ミラー(監督),デヴィット・S・ゴイヤーほか(脚本),2019,『ターミネーター・ニュー・フェイト』,パラマウント・ピクチャーズ

小説

日部星花,2020,『今日から死神やってみた!イケメンの言いなりにはなりません!』,講談社青い鳥文庫
日部星花,2020,『今日から死神やってみた!あなたの未練断ち切ります!』,講談社青い鳥文庫
梅原克文,1998,『二重螺旋の悪魔(上)』,角川ホラー文庫
梅原克文,1998,『二重螺旋の悪魔(下)』,角川ホラー文庫
梅原克文,1993,『二重螺旋の悪魔 上』,朝日ソノラマ
梅原克文,1993,『二重螺旋の悪魔 下』,朝日ソノラマ
梅原克文,2010,『ソリトンの悪魔』,双葉文庫
梅原克文,2001,『サイファイ・ムーン』,集英社

参考文献

池上彰,佐藤優,2015,『希望の資本論 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか』,朝日新聞出版
春香クリスティーン,2015,『ナショナリズムをとことん考えてみたら』,PHP新書
萱野稔人,2011,『ナショナリズムは悪なのか 新・現代思想講義』,NHK出版新書
大澤真幸(編),2009,『ナショナリズム論・入門』,有斐閣アルマ
那須耕介(編著),橋本努(編著),2020,『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』,勁草書房
沢登俊雄,1997,『現代社会とパターナリズム』,ゆみる出版
佐藤優,2014,『いま生きる「資本論」』,新潮社
マックス・ヴェーバー(著),大塚久雄(訳),1989,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,岩波文庫
長谷部恭男ほか/編集委員,2007,『岩波講座憲法2 人権論の新展開』,岩波書店
ルーサー・リンク/著,高山宏/訳,1995,『悪魔 Kenkyusha-reaktion books』,研究社出版
利倉隆/著,1999,『天使の美術と物語』,美術出版社
ヘルベルト・フォアグリムラーほか/著,上田浩二ほか/訳,2006,『天使の文化図鑑』,東洋書林
森瀬繚,2014,『いちばん詳しい「天使」がわかる事典 ミカエル、メタトロンからグノーシスの天使まで』,SBクリエイティブ

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