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樋口一葉より 十三夜

 主人公はお関。
 望月の十五夜にならぬ十三夜、実家の斎藤家に着の身着のまま訪れる……とやや芝居がかった冒頭。
 そんな夜にひっそりと実家を訪れたのは、お関は両親に「夫と離婚するための話し合いをしてほしい」と打ち明けるためでした。

 作者の一葉自身が、この作品で「芝居」を意識したかどうか?
 舞台演劇であれば、一幕と二幕のいわゆる上・下構成です。
 一幕目(上)ではお関とその両親が居間で話し合う場面で、お関の身の上と家族構成などがセリフによって描かれます。

 原田勇というお関の亭主は役所でも高い身分にある男。
 原田がお関を見初めたのは十七歳の正月。友だちと羽子板で遊んでいて、羽根が原田の車(おそらくは人力車)に落ちたのを拾いに行ったのがはじまりです。
 それ以来、原田は熱烈にお関を「妻に」と求めます。
 そして強引に結婚。
 周囲の者たちは玉の輿をうらやむばかりでした。
 しかし、太郎という子どもが生まれてからは、
「まったく私にお飽きなさって、どうしたら出てゆくか、ああもしたら離縁をと言い出すかと、いじめていじめて、いじめ抜くのでございます」
 とお関は両親に訴えます。
 原田は芸者遊びやよそに囲い者(妾)をするだけでは足らず、お関のやることなすことをすべて文句をつけ、下女たちの前で恥をかかせ、
「太郎の乳母として置いてつかわす」
 などとののしる始末。太郎の母親なのに(涙)
 それでもお関は息子の太郎がかわいくて、夫の暴言にたえるばかり。それもまた、原田はイジメる口実にします。
「張りも意気地もないぐうらたのヤツ。だから気に入らぬのだ」

 現代でいうところのDV(ドメスティックバイオレンス)
 一葉はヒロインが「両親に訴える」という構成で描き出し、DVの非道をあぶりだします。

「名のみ立派の原田勇に離縁されたからといって、名残惜しいとは思いませんけれど、何も知らぬ太郎が、片親になるかと思いますと、今日まで辛抱しておりました」
 というお関の言葉に、両親は愕然とします。
 母親はお関の肩を持ち、
「下女たちの前で恥をかかされて、奥様としての威光がなくなれば、太郎が成長するにしたがって、母親がバカにされていると分かるようになったらどうします。わたしにも家がありますと言って出てくるがよろしい。聞いただけで腹が立つ」
 と興奮してお関と勇を離縁させることを夫(お関の父)に求めます。
 お関の父親は腕組みをして目を閉じています。
「ああ、おふくろ。無茶を言ってはいけない。初めて聞いてどうしたものかと思案にくれる。お関もよくよくつらくて出てきたものだろうが、今夜は婿どの(勇)は不在か。離縁すると言ってウチに来たのか?」
 父親の落ち着いた質問に、お関は
「一昨日より帰ってません。五、六日家を空けるのはいつものこと。出かかるときに原田は服のそろえ方が悪いと言って、脱いでたたきつけ、自分で洋服に着替えて、おまえのような妻を持ったわしは不仕合せだと言い捨てて外出あそばしました。一年三百六十五日、ずっと無視されているのに、まれに言われるのはそんな情けない言葉です。それでも原田の妻と呼ばれたいのか、太郎の母ですという顔をしていられるのか、わたしは自分の気持ちがわかりません」
 お関の夫への恨みと、息子への愛情で引き裂かれた心が痛ましいセリフです。
「夫も子もない、嫁入り前のむかしを思えば、太郎の寝顔をながめながら置いてくるほどの心になりました。もう勇のそばに居ることはできません。親はなくとも子は育つと言いますし、わたしのような不運な母親の手で育つより、継母なり(夫・勇の)気に入った女性に育ててもらったら、少しは父親もあの子をかわいがってくれましょう」
 と声を震わせます。

 ここでお関の実家・斎藤家の事情を説明しますと、お関の下に亥之助という弟がいます。
 亥之助は勤めからまだ戻っておらず、登場しないのですがお関と両親のセリフからその存在が読者に分かります。

 お関の母親は感情的になって娘の離縁に理解を示しますが、父親の心理は少し違います。
 結婚生活の破綻を訴えるお関の装いが良家の「若奥さま」としてかなり品がいい様子を見て、父親は「大丸髷に金輪の根を巻き、黒ちりめんの羽織」を身に着けている娘が
「(離縁して)斎藤の娘にもどれば、木綿の銘仙の半纏にたすきがけの水仕事をするようになるのは、残念だ……」
 という親心が動くわけです。
「身分不相応の結婚で、苦労しているのは哀れだが、一度離縁してしまえば、二度と原田太郎の母親にはもどれぬのだよ」
 とさとしながら、弟の亥之助についても
「亥之助は上役に気に入られているが、その背景には、姉が原田勇に嫁入ったからという理由がある。太郎という子があって今日まで辛抱できたなら、これから後もできないことはないだろう。離縁すれば太郎は原田のものになってしまい、二度と顔を見に行くこともできなくなる。同じ不運に泣くならば、原田の妻で大泣きに泣いた方がよい」
 と諭します。お関はワッと泣き伏して、
「それでは離縁を言ったのはわがままでございました。太郎と別れて顔も見られぬようになれば、この世にいても甲斐がない。ただ目の前の苦しみを逃れたとして、なんの意味がありましょう。わたしさえ死んだ気になれば、あの子も両親の手で育てられます。今夜かぎりわたしは消えて、魂一つがあの子の身を守るものと思えば、夫のつらく当たるくらい辛抱できそうなことです」
 そう言って原田の家にもどることを決意します。

 耐えることが「女性の美徳」とされた時代。このお関も家族のために夫のDVに耐えて「死んだ気になる」という決意をするわけです。
「あんな夫の血を引いた子など、顔も見たくない! 若奥さまの立場を捨ててだってイジメられるのはお断り!」
 という言葉は一つも出てきません。
 盲目的な母性愛だけを杖に、この先を生きてゆこうと斎藤家を出るのです。
 明治の女性の芯の強さ。
 というより、選択肢のなさが気の毒です。
「お父さまもお母さまもごきげんよう。この次には笑顔で参ります」
 袖で涙を隠してお関は別れのあいさつをします。

 そして第二幕(下)
 実家から原田家にもどるため、十三夜の月光の下で人力車に乗りこむお関。
 ところがその車夫は一町ほど進んだ先で車を止めると
「お代はいりませんから、お降りください。もう引くのがいやになったのでございます」
 と言う。お関は驚いて
「加減でも悪いのですか? ここまで引いてイヤになったではすまないでしょう。こんな寂しい場所では降りられません。代わりの車がある広小路まで連れて行っておくれ」
 というやりとりがあります。
 そのうちに、
「もしやお前さんは、高坂の録さんではないか」
 幼なじみの録之助だということに気づきます。
 町内に「能登屋」という煙草屋があって、そこの息子が録之助なのです。
 子どものころからお関は録之助の女房になって、煙草屋のおかみになる自分を夢見ていました。録之助もまた、同じ想いだったわけです。
「お関さん、あなたは相変わらずのお美しさ。奥さまにおなりなさったと聞いたときから、一度は拝むことができるか、一生のうちにお言葉を交わすことができるかと願っていました。今日までわたしは入用のない命と捨て鉢になっていましたが、生きていたからこそこの対面があって、ああ、わたしを高坂の録之助と覚えていてくださった。かたじけのうございます」
 と打ち明けます。
「だれも憂き世に一人と思ってくださいますな」
 とお関はしんみりと録之助をなぐさめるのです。

 この一言はもっと現代的にすれば
「世界にだれ一人味方がいないと思わないでくださいね」
 というニュアンスでしょう。
 この言葉が出た瞬間、お関は録之助とお互いのつらさを共有したのではないでしょうか?

 もともと録之助は「小川町の高坂にある小ぎれいな煙草屋の一人息子。年若いうちから気が利いて愛嬌があって、父親が商売していたときより店の切り盛りが上手い利口者」と評判があったのが、「お関が嫁入りと聞いたときから、やけ遊びの底抜け騒ぎ、まるで人が変わったようだ。魔が差したのか、祟りでもあったのか、ただ事ではない」とウワサになったわけです。
 録之助はお関が玉の輿に乗って原田の妻になったと知り、失恋のためにすさんでいきました。
 やがて人のすすめで結婚して娘をもうけますが、すぐに離婚。幼い娘はチフスで命を落とします。

 お互いに口に出したこともない「とりとめもなく夢のような恋」だったわけです。
 お関の心情は録之助との再会で再びゆれます。
(思い切ってしまえ、思い切ってしまえ、あきらめてしまおうと心を定めて、今の原田に嫁入ったけれど、その際までも涙がこぼれて忘れかねた人。わたしが思うほどこの人も思ってくれて、それゆえに身を破滅させたのかもしれない)

 第一幕では両親に自分の境遇を訴えたお関です。
 離縁しようとしたのを父親におしとどめられ、自分を消滅させて太郎のために原田のもとへもどろうとしました。
 その帰り道に忘れられない人と再会するわけです。
 結局、お関を乗せて録之助は広小路まで出てくれます。
 そこから先はほかの人力車を拾って原田家にもどることができるでしょう。

 車から降りたお関は紙幣を多めに包んで録之助に渡します。
「久しぶりでお目にかかって、申し上げたいことはたくさんあるのですが口に出せません。身体を大事にして、なにとぞ以前の録さんにもどってくださいね」
「あなたの手からいただいたものならば、ありがたく頂戴して思い出にします。お別れするのが惜しいです」
 月光の下、お関と録之助はそれぞれの思いを胸に別れるところで「幕」となります。

 以上が「十三夜」の物語。
 富める原田家を満月(十五夜)に見立てて、満たされてはいなくても充分美しい十三夜の月として、お関と録之助の心の触れ合いを描いているのかもしれません。
 それとも……あるいは?
 DV男の原田勇はお関の心が別の男にあると感じていて、暴言を吐くのかもしれませんね。
 芸者遊びをしようが妾を持とうが、お関は嫉妬しないのですから。
「おれの他に恋しい男がいるのだろう」
 などと身分が低い妻を問い詰めることは、原田勇のプライドが許さないことでしょう。
 結局、彼もまた、お関をいじめることで憂さを晴らす「むなしい愛」を抱えた男なのかもしれません。
 いやいや、それはあまりに深読みかな?(笑)
 樋口一葉は原田勇の心理は一切描いてはいませんから。
 こういう読者に考えさせるところ、一葉はかなり奥が深い小説家ですね。
 さまざまな意味で余韻を残す「十三夜」でした。m(__)m

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