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樋口一葉について、個人的なまとめ
「紫式部と清少納言はどちらが良いと思いますか?」
平安時代の才女二人について、「どちらの才が上か?」と誰かに問われたことはないでしょうか?
わたしにはあります。
中学生か、高校生のとき。国語の時間に教師がクラス全員に、それとなく世間話的に質問したこともあるし、友だち同士で
「清少納言の方が分かりやすいよね。でも紫式部の源氏物語はモンスター級の長編だっていうし」
などと他愛もない会話をしたものです。
樋口一葉に触れていて、なぜ清少納言と紫式部が出てくるのか?
疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。
それは樋口一葉のエッセイ「さをのしづく」の冒頭に
「紫式部と清少納言はどちらが良いと思いますか?」
一葉が通っていた歌塾「萩の舎」の中島歌子が門下生に論争させたことに触れていたからです。
そのとき
「式部、式部!」
という声が多かったとか。
ちなみに「歌塾」とは……。
明治時代、女性たちの教養として習字やお茶、生け花と同じように、塾に通って「和歌を勉強する」のは当たり前だったらしいです。
樋口一葉もまた、歌塾に通い……というより師匠である中島歌子の家に住み込んで「内弟子」として勉強した時期があります。
もっとも、一葉は「内弟子」として住みこんだものの、下女の仕事までさせられて和歌のレッスンができなくなったために身を引き、あたらめて歌子は一葉を
「二円の月給で助教にやとう」
と提案して呼び戻したとか。
その中島歌子は
「萩の舎門下の才媛で、三宅花圃と樋口夏子(一葉)をどう評価しますか?」
という新聞記者に質問に
「三宅花圃は紫式部で、樋口夏子は清少納言でしょう」
と答えました。
一葉自身「さをのしづく」の中で清少納言をひいきにしていて、わたしも実は清少納言をリスペクトしているため、
(なんだかうれしい……)
と思ったものです。
「紫式部は父親も兄も学者で幼いころかた教育環境がいい、裕福な家で育ったから素直に才能を伸ばしたのでしょう。でも、清少納言は自力で学問を身に着けて、才気を発揮させた女性です。後ろ盾(中宮・藤原定子)をなくしてから没落したことを、嘲るなんて気の毒だわ」
という意味のことを書いています。
明治のころ、文筆によって生計を立てていた一葉は「現代の清少納言」とか「女西鶴」とニックネームをつけられたりしたから、
(清少納言に自己投影している心理があったのかもしれないな)
と考えています。
実のところ、わたしが「樋口一葉」を読み始めたのは「十一月の三連休を無駄にしたくない」という単純な思い付きでした。「かつて挫折した代表作くらい、ちゃんと読まねば……」と。
そしてだいたいの作品に目を通しました。しかし「わかれみち」や「雪の日」などは流麗な文章はさすがだと思うものの、
「これは習作ですか? 一葉先生」
と声をかけたくなりました。
一葉自身の失恋から発想した「雪の日」などはプロットとして扱うべき作品に思えましたし、「わかれみち」は序盤や中盤までの盛り上がりに比べ、最後が「尻切れトンボ」な印象を受けたものです。
ここでふと、一葉の最期の十四カ月が「奇跡」だとされていることを考えました。
名作の誉れ高い「大つごもり」「十三夜」「にごりえ」「たけくらべ」は一葉が結核によって床に就いた十四カ月の間に書かれたものだということです。
つまり、家計を助けるために雑貨商を営んだり、針仕事を請けたり、遊女たちがなじみ客に送る手紙の代筆を請け負ったり、草履の「蝉表」を編んだりしなくてすんだが故に、
「奇跡の十四カ月!」
があったのではないでしょうか?
だとしたら、それ以前の一葉の作品が駄作ではないものの、集中して書けなかった残念な作品だということも理解できます。そしてそんな一葉について、とても痛ましい気持ちになりました。
美人で薄幸の天才文豪。
そういうイメージの樋口一葉ですが、わたしにとっては、
「質素な身なりで、おだやかなしゃべり方をするけれど、きりっと頭を上げて向かい風をにらんでいるようなしっかり者」
上り坂を下駄の音をたてて足早に進んでいくような小粋な江戸っ子、というイメージです。
樋口一葉をこんなに読みこむことになろうとは、実のところわたし自身、思ってもみなかったことで、とにかく驚いています。
代表作を読了したのが、勤労感謝の日である十一月二十三日。それが一葉の命日だということも、なにやら
「縁があるなぁ」
などと感慨にふけったものです。
これまでは、一葉に関する研究書や伝記、作品の解説本といったものは一切、目を通さずにきました。一葉本人の作品だけを楽しませていただいたわけです。
そのうち樋口一葉に関する「日記」や「手紙」のたぐいにも目を向けたいと考えています。
(文章のリズムのため、一葉、一葉と呼び捨てに書きました。どうかご不快にお思いになりませんように……。m(__)m)
以下は樋口一葉について、個人的なまとめの補筆となります ↓
一葉については自己完結したつもりでしたが、評伝などを何冊か目を通すうち気になることをここに記したいと思います。m(__)m
瀬戸内寂聴 著 『わたしの樋口一葉』
↑こちらの本では、「たけくらべ」における美登利の変貌を
「初潮をむかえ、自分が汚れてしまったことを強烈に恥じる気持ち」
ゆえのことだと主張しておられました。
わたし個人の印象では前述のように「源氏物語」の「若紫」が初夜を強いられて大人の女性になったときの描写を連想したため、
(美登利の変貌は「みずあげ」説では?)
と疑っていたのですが、ここは明治時代の女性の感受性を視野にいれるべきところでしたね。
現代のようにテレビCMで生理用品の情報がばんばん流れる時代ではなく、いわゆる「月のケガレ」とも言われて、「恥じること」「隠すべきこと」とされていた女性の生理ですから、美登利が自分の身体の変化に大きなショックを受けることを想定すると、やはり(;^_^A
(初潮説が正しいのかもしれない……?)
などと、決着はつきません。
瀬戸内寂聴先生は一葉について
「女性の生理を直接的な描写を避けて、あそこまで踏み込んで表現した作家はいない」
と絶賛しておられました。さらに、一葉の絶筆となった「うらむらさき」の後半を一葉の文体(擬古文)で書きついであり、興味深かったです。
ようするに、その時代によって人間の生活習慣も違えば、物事の受け止め方の心理状態も違い、解釈にズレが生じるということです。
ちょっと飛躍しますが……
「あのころの人間はそんなものでしたよ」
とは岡本綺堂が書いた「半七捕り物帳」でのセリフ。
江戸末期に活躍した岡っ引き、半七が明治の世になって自分が関わった(解決した)事件を物語る形式のミステリーで
「お文の魂」
というのがあります。
ある旗本の幼い姫が、ある日をさかいに夜な夜な
「お文が来た」
と泣くようになります。その理由は本人にもよく分からないまでも、事情をいくつか聞いた半七は事件を突き止める、という内容でした。そしてお文の意外な正体。
(これはなんでもご都合主義じゃないかな?)
一読したときの感想はそんなものでしたが、それを予想していたかのように、本の中から半七は
「あのころの人間はそんなものでしたよ」
のんびりとおっしゃったものです。
ホラーに慣れ親しんだ現代人にとってはなんでもなくても、江戸時代の幼い旗本の姫にとって、お文は本当に恐ろしかったのでしょう。結局、半七が姫の悪夢を取り除くと同時に悪者の悪事も露見して一件落着でした。
ここにも現代人と江戸時代の人間の意識のギャップが存在したわけです。
時代小説を書く場合、この意識の「ズレ」をどれくらい踏みこむべきなのか、とても難しいです。
現代人にとってはタブレット一つで何もかもが手に入り、簡単なことでも、ほんの五十年前であれば考えられないほど大変だったことってたくさんありますしね。
価値観も違えば、我慢強さや人間関係も違います。
なにより、意識のズレをどれくらい描写するべきなのか。
取捨選択を誤ると物語として成立せず、ただの時代考証の羅列になってしまう場合もありますから。(^▽^;)
なにはともあれ、本当に樋口一葉は奥が深いです♪
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