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歴史時代小説パンデミック「火定」

 すごい本を読んだ。読後、真っ先に思ったのがその一言です。
タイトルの「火定 かじょう」というのはおそらく仏教用語で、自らの肉体を火に投じて罪を清めて解放されて入滅(死)する「火定入滅」からきていると思われます。
 著者は「星落ちて、なお」で直木賞を受賞の澤田瞳子(さわだとうこ)先生。ちなみに「星落ちて……」はAmazonオーディブルで拝聴いたしました。(画家、河鍋暁斎の娘で女流画家の一代記です! 名作!)

 「火定」は「星落ちて……」以前の作品でこちらも直木賞候補でした。
内容はこちら ↓ です。
 時は天平。光明皇后(聖武天皇の妃 藤原氏の女性)が設立した「施薬院」では病人やけが人を収容して治療する施設。それと隣接して孤児たちを擁護する「悲田院」があります。
 名代(なしろ)は施薬院の使部(しぶ 使い走りの下級役人)になって日が浅い。令外官(りょうげのかん)である施薬院の官人は出世など望めぬ役職で、
(こんな仕事、やめてやる!)
 不満をくすぶらせています。
新羅から使節が持ち帰った品々が払下げられることになり、施薬院で使う生薬を購入するため、名代は先輩の広道(ひろみち)とともに行動します。そこで出会ったのは権力者・藤原房前に家令として抱えられている医師・猪名部諸男(いなべのもろお)
生薬をめぐって諸男はとげとげしい態度で広道と対立。それでいてその場にいた病人を連れ帰って自室で治療しはじめるという皮肉っぽい二面性のある登場が印象的です。
遣新羅使が持ち帰ったのは品物だけではありませんでした。
もがさと呼ばれる疫病・天然痘です。
高熱がおさまったあと、全身に膿をもった湿疹が現れて再び高熱。命をとりとめても膿疱(のうほう)のあとがあばたになったり、失明したりする大病です。
ちなみに戦国時代の武将・伊達政宗も幼いころにこれにかかり、片眼を失明しています。
諸男は「備急千金要法(びきゅうせんきんようほう)」という書物を参考に、連れ帰った病人の治療法を試します。しかし看護むなしく病人は死に、諸男も軽症ながら罹患してしまうのです。
諸男の背景は複雑です。
もとは内薬司という朝廷に出仕する公家や皇族たちの健康を守る侍医の一人でした。
ところが天皇にたてまつられた「のどの薬」が、中味が湿布薬だったというあり得ない過誤。
しかも「そのラベルを書いて貼り付けたのが諸男だ」とやってもいない罪を着せられて投獄。
諸男以外の侍医たちはもともと身分の高い医家の出身のため、有能さを妬まれて嵌められてしまったわけです。そして侍医の身分から罪人に転落。
獄中で詐欺師・宇須(うず)と知り合います。
獄舎では重労働と環境の悪さで罪人たちが病で死んでいくのを、見かねた諸男が治療するという一幕があり、やがて朝廷は全国の飢饉をなだめるために恩赦を決めるのです。
恩赦によって獄から召し放たれた諸男でしたが、前科者という理由で仕事につけません。
そんなときやや型破りな権力者である藤原房前が「獄中で罪人を治療していた元侍医がいる。召し抱えたい」と気まぐれを起こして諸男を「家令」にするわけです。
諸男は病人を自室で治療したものの、結局は救えず、自らも罹患してしまいます。
高熱を出した諸男を屋敷ではうとましがり、獄中仲間の宇須(うず)が引き取ります。
やがて都を飲み込む天然痘の疫病。パンデミックです!
宇須は「常世常虫(とこよとこむし)」といういい加減な疫病退散のまじない札を作って売りさばき、金を得ます。まじない札の値段を釣り上げても人々は群がってそれを買い求め、「常世常虫(とこよとこむし)」を神とあがめる始末。諸男もまた、自分をおとしいれた医師や世間を憎悪し、心の痛みを感じながらも宇須の誘導に身を投じて悪に染まろうとするのです。
大金を手に入れ、そろそろやめるべきだと諸男にさとされたとき、悪党・宇須のセリフが際立ちます。
「おれぁ別に銭が欲しくてまじない札を売っているわけじゃねえ。俺の言葉一つで大勢が右往左往する様が、ただ面白くてならねえんだ。(略)長らく獄にぶちこまれていたおれのこしらえた神に、都じゅうの奴らがすがり、役にも立たねえ札を目の色変えて買っていくんだ。こんなおもしれえこと、そう簡単にやめられるかよ」
「おめえだってどうせ心の中じゃ、もがさにいつかかるかビクビクしているんだろう。だったら先のことなんざ考えず、今この時を好きに生きた方がいいじゃねえか(略)どんな手を尽くしたって、この疫病が収まりそうもねえことだって、分かっているだろうに」
 頭脳明晰で弁舌に優れ、とことん邪悪。憎悪と良心の板挟みになってしばしば立ち止まる諸男を助けながら、横目でせせら笑う見事な悪役です。
疫病の恐怖と不安から、新羅から渡って来た天然痘は「渡来人のせい」とヒステリックになった暴徒たちによって寺が襲われ、渡来人たちの店も放火されます。(奈良時代は案外、唐やイラン、ペルシアなどから使節が行き来して、国際色豊かでした)
動乱のさなか、施薬院は医師の綱手(つなて)が「門を閉ざすな。けが人や病人を受け入れるのが施薬院だ」と医療現場で奮闘。
綱手はかつて若いころに天然痘にかかって九死に一生を得た経験があり、醜悪な容貌ながら悲壮な使命感で治療にあたるのです。
名代(なしろ)もまた「施薬院など辞めてやる」つもりが、広道や綱手らに感情をぶつけることで成長。
 暴徒たちから仲間を守ろうとし、天然痘の治療法を求めて遣新羅使だった身分高い公家のもとへ乗り込みます。
 そういう人々の姿を目の当たりにして、諸男は(わたしは今までいったい何をしてきたのだ)と懊悩。
 疫病という炎によってあぶりだされる人々の生きざま。
苦闘の果てに救いはあるのか?

 天然痘という疫病の過酷な描写のため、苦手な方は読みづらいところもあるかと思います。
日常的に使われる「お気の毒でした」「かわいそうに」といった言葉が他人行儀でうわべだけ撫でているような空疎な響きに転落してしまうほど、この一冊は容赦のない描写力にあふれています。
あるいはまた「天平の医師が現代的すぎる」という批判もあったとか。
でもそこ、批判するべきところじゃないから! と個人的に言いたいです。
疫病の苛烈な描写も現代的な感覚で医師たちを描いていることも、それは作家さんの「小説を読む人に対する誠意の現れ」だと納得させる一冊です。

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