哲学することのメリットについて
「なぜ哲学するのか・・・」
「哲学する事に何の意味があるのか・・・」
「生きるとはなにか」以前に自分はなぜ哲学をするのか。
ずっと答えを持たずに今日まで哲学をしてきた。
ただ、さっきバイクに乗ってるときにふと気がついた。
哲学することそのものに意味はないかもしれない。
けれどだ。
『哲学?そんな面倒くさいこと考えないでいいーじゃん♪
楽しいことのほうが大事っしょ?♪』
哲学をしていれば少なからずそういう浅はかな人間にならずに済む。
これこそが哲学を学び、哲学することの最大のメリットかもしれない。
皆さんがご存知の通り、哲学で扱う問いはおおよそすぐに答えが出るものではない。
「人生とはなにか」
「生きるとはなにか」
「生きる事の本質とはなにか」
「人としてどうあるべきか」
すべての物事は哲学され得るが、だいたいにして問いそのものが重い。
そこに倫理や道徳が加わると更にややこしくなる。
ざっくり言えばかなり面倒な学問だ。
それでいてなんの儲けにもならない。
経済性はない、と言っても過言では無い。
事実、過去の哲学者の多くもまた贅沢とは無縁の生活を送ってきた。
現代で生きるのに哲学はいらないのかもしれない。
むしろ経済性を優先するのであれば、哲学は邪魔になる。
経済について哲学し始めると必ず気づいてしまうことがある。
経済のその多くが「虚構」であることに気がついてしまうと稼ぐことそのものがバカバカしくなってしまう「知の境界線」があるのだ。
だから経済的になりたい人は哲学はしないほうがいいと思う。
だからこそ資本主義社会において哲学は好かれないのだ。
だからウェーイとやる若者や快楽至上主義的な人間が量産されるのだ。
哲学には唯一、そういった浅はかな人生を抑制する作用がある。
一つの問に対して考え続けることで人の思考能力や思慮は深まっていく。
一つのことを突き詰める職人に哲学があるように、一つのことを考える人間の心には哲学が「生まれる」のだ。
学校教育では科学や数学は学校で学べるかもしれない。
しかし、経済を回す人員(歯車)を確保するための養成機関である学校では決して哲学だけは教えない。哲学者の歴史こそ習うかもしれないが彼らが生涯をかけて創り出した崇高な哲学という学問を教育機関では一切教えない。
なぜなら我々が哲学をし、思慮深い人間になると社会がついている嘘や欺瞞、大人たちが自分たちの都合で教育を施しているのだとバレるからだ。
「人生の錨としての哲学」
大抵の人は流される。
流されると言うことがどういうことなのか知りたい方はナポレオン・ヒル博士著「悪魔を出し抜け」を是非読んでみてほしい。
社会という流れの中にあって哲学は唯一、人生の錨(いかり)となり、流されることのない人間へと人を進化させる。
哲学の基本は習うことではなく、自分で考えることだ。
自分で考える上で行き詰まったときに過去の哲学者や偉大な人たちの知恵を借りることはあっても最初から偉人の学びを真似るようにして始まるものではない。
最初に疑問があるのだ。
その疑問に対して自分で答える学問こそが哲学といっても過言ではない。
どこかに答えがあるわけでもない。
ヒントはある。近しい答えがあることもある。
でも哲学というのはおかしな話で自分で考えて答えが出ないと大凡納得がいかないのだ。(だから気難しいと言われるのかもしれない)
だからこそ自分で考える。
自分で答えを出す。
だからこそ自分の意志が生まれる。
自分の人生に対する意味を自らが決めることができる。
誰かに押し付けられた価値観やモノの見方、感じ方。
そういう量産型感性に自分の考えや感覚を奪われるがなくなる。
自分が思ったことを自分が思ったとおりに、そしてそれを自分の考えとして答えることができるようになる。
自分で考えた答えだからこそ理屈がある。
その答えには思考過程があり、結論を答えるまでの道筋とプロセスを含めて答えることができる。
それが「自分の意見」「自分の考え」になる。
会議においても自分の意見が言えない。
自分の意見をまとめて誰かに伝えることができない。
「最近の若者は自分の意見や考えが無さ過ぎる」
と年増しの人たちはそう答えるが、そうさせたのは社会や教育機関だ。
彼らのせいではない。
しかし、こういった話を聞いたことがないなんて人はいないように事実として我々現代人、特に若い世代の我々は自分の意見を押し殺すことに慣れてしまい、そして自分自身の人生に対する疑問に対して考えるのを止め過ぎてしまっている。
その結果、待っているのは浅はかで、安直で、人間なのに自分の意見が言えない、思考プロセスを踏まえた考えを他者に発することができない、人間としての深みの無い「量産型社会人」という結果だ。
なんとなく生きるのもまた人生だから否定するつもりはない。
それで当人が幸せならそれはそれで良いと思う。
居酒屋でウェイウェイするのが好きならすればいい。
(俺は絶対に嫌だけどね。笑)
これはあくまでも俺個人の考えだから誰かに強制もしないし、求めもしない。けれどこれだけは言える。
「浅はかな人間に感じる魅力など少しも無い。」
ってね。
自分なりの哲学を持っている人たちに俺は魅力を感じる。
それが多岐に渡って哲学され、思考が深い人の話を聞いていると一冊の本を読んでいる以上に学ぶことがある。
自分が考えも及ばない発想法や言葉の使い方、組み合わせ方。
哲学している人たちの言葉は大抵ウィット(機知)に飛んでいる。
だから話していて面白い。
「そこまで考えるのか・・・」
と頷くことが多く、聞いているだけで学びになる。
「人間にとって考えることそのものが娯楽になり得る」
とはある小説の一節ではあるが哲学することの意味や楽しさは正にこの言葉が言い表してくれている。
ダラダラと書いていたら素潜りに行く時間になってしまった。
とかく、この記事を読んで哲学に興味が湧いたなら何でも良いから是非哲学に関する本を手にしてみて欲しい。
取っつきやすいところで言えばこのあたりの本が良いだろう。
ブッダを始め、名前くらいなら聞いたことがあるような人も出てくるだろうから入り易いと思う。
動画であればアバタローさんが名著を解説してくれているからこちらもオススメだ。
浅い干潟でも得られる物はたくさんある。
けれど深い海に潜ればもっともっと多くの魚や生物に出会える。
知もまた同じことが言える。
自分が今知っている人生だけが人生ではないことを哲学は教えてくれる。
もっと現実的な価値観や人生観、死生観を哲学は教えてくれる。
哲学を学び始めるのに遅いも早いもありません。
気づいたときがスタートです。
是非皆さんも浅はかな量産型社会人にはならないようにご自身の哲学について考えてみてください。
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