生きる事の本質について

ここ一年間、ずっと考えていることがある。
それが「生きることの本質について」だ。

「生きることの本質とは『本必』なのではないか?」

『人生の短さについて』でセネカが語っているように人生は短い。
気がつけばあっという間に年老いている。
中身のない時間ほど人を老化させる。
特に脳がそうだ。知的な発見や刺激がない人生は短い。
なのに我々現代人は人生を浪費している。
ではどうやって浪費しているのだろうか?

「不必要な物を必要だと思いこんで浪費している」

現代社会では何かを手に入れるには基本的に紙幣を支払わなければならない。そうでなければ物々交換という手もあるが基本的には金銭のやり取りを介して物の交換が行われる。その金銭を得る方法に労働がある。
つまり何かを手に入れるためには働く必要がある。
これは誰しもが理解していることだと思うが、もしその手に入れたい物が本当は必要の無いものであったなら、現代人のようにあくせく働く必要がどこにあるのだろうか?と考えられないだろうか?

①不必要なモノを必要だと思い込ませて購買意欲を煽ぐ

②それを得る為には労働をしなければならない

③労働環境を提供する代わりに労働力を一部の資本家が搾取する

簡易的な説明ではあるが資本論で言われている資本主義社会の構図に照らし合わせて考えればまさに我々は不必要なものを必要だと思い込み、それを手に入れるために労働が必要だと思い込み、そして貴重な人生という時間をいとも簡単に他人に譲り渡してしまうのだ。

これをアメリカの心理学者であるA・マズロー博士に言わせれば

「我々が認めなくてはならないのは、我々が物質的快楽を得るために、とても大切な生まれながらの権利を低く評価し、それを売り渡してしまいがちで、その結果残されるのは、後悔と良心の呵責と自尊心を傷つけるとであるということである。」

では、本当に必要なものとは一体なんなのだろか?
本当は必要が無い物とは一体なんなのだろうか?

ここの定義が難しかった。もっとも時間が掛かった。
でも今現在、分かっていることの一つを今日はまとめようと思う。

①「肉は要らない」

これはわたしの別のブログ「菜食の科学」でも散々書いてきたが現代のような様々な食材が手に入る社会においてわざわざタンパク質を陸上の動物に頼る必要は無い。それも肥育ホルモンを打たれ、遺伝子組み換え作物を与えられ、悪列な環境で育てられた非常に発がん性が高い動物を食べる必要性なんて無い。なのに我々は何故か肉を欲してしまう。
ストレスが溜まれば焼き肉が食べたくなってしまう。
ではあの肉を欲する感覚は偽りだと言うのか?
否、あの感覚は本物だ。しかし現代社会において発生する必要の無い感覚だ。もし、あなたが森の中を彷徨い、食べるものがない極限のストレス状態に置かれたとしよう。どうにかして食べるものを見つけなければならない。
こういった原始的な究極のストレス状態にあるとき、人は動物性のタンパク質を求めるようになっている。なぜかといえば人体を維持する上でそれがもっとも手っ取り早いからだ。野生の肉にはタンパク質を始め、脳の維持に重要な脂質も多く含まれている。(畜産動物は炎症性の高い脂質がほとんど)
事実、人間にはタンパク質からエネルギーを生み出す仕組みまで備わっている。炭水化物が無くても活動できる仕組みが人間には備わっているのだ。
それが一部、巷で流行った「ケトン体」だ。アミノ酸からミトコンドリアが消費してエネルギーを生み出す仕組みが人間にも備わっている。
人間にとってストレスは「行動を促すトリガー」だ。
だから現代人もストレスにさらされると無意識的に肉を欲してしまう。
これはラットを使った研究でも判明しており、より強いストレスを受けたラットのほうが動物性脂肪を含む餌への趣向性が高くなったという研究結果がある。また琉球大学の研究でも脳の酸化ストレスを取り除く効果が認められているγーオリザノールを摂取した人たちのほうが動物性脂肪への趣向性が低くなったと発表をしている。
つまり、人はストレスに晒されると肉を欲するようにできているのだ。
そう言っているわたしも強いストレスに晒されると肉が食べたくなる。
だからこそ自分自身の身体を介してもこの事は理解している。
だがここで一つの疑問が生まれる。

「そのストレスは本当に必要なストレスなのだろうか?」

ストレスを発生させるホルモンを造り出す機能が我々の脳の視床下部に備わっているのは確かなのだからストレスは必ず発生する。むしろストレスが無いのはおかしいことなのだ。だが、その発生したストレスが本当に必要なのか、考えたことがあるだろうか?ここで最初の答えに結びつく。

「不必要なストレスで人生を浪費している」

大抵のストレスは仕事によって発生している。
もちろん、ストレスは様々な物事を介して発生するものではあるが一旦ここでは仕事におけるストレスについて取り扱う。

ストレスは本来、行動を促すトリガーになる。
ストレスは行動を促す起爆剤になるのだ。
ストレスに晒されると人はそのストレスをどうにかしなければならない、と考え行動するようになっている。
本来であれば、この行動はそのストレスの原因を取り除くための行動にならなければならない。狩猟民族におけるストレスは

「いつ獲物がまた手に入るかわからない」

「お腹が空いた・・・」

というストレスだった。(もちろん狩猟で怪我したり死ぬリスクも)
その原因を解決したのが稲作などの農耕技術の発展ではあるが、もしその農耕技術が発展せず根本的な解決がなされていなかったとしたら、もしかしたら我々現代人も狩猟におけるそのストレスと付き合っていかなければならなかったかもしれない。
縄文文化においても採集活動を通して様々な物を食べてたことは最新の研究で判明してはいるが、それでも彼らの食に関するストレスの根源を解決したのは稲作などの農耕文化であったと思われる。
そのように本来、ストレスはその問題を解決に向かわせる為のトリガーにならなければならない。しかし原始的な脳を未だに有している我々人間は強いストレスに晒されると飢餓と勘違いをしてしまい肉を欲してしまう。
確かに肉を食べることで一時的にそのストレスは発散される。
その美味しさ故にドーパミンが分泌され、ストレスは解消へと向かう。
ただし、一時的にだ。本質的な問題は何一つ解決していない。
そして一番問題なのが「その肉が毒である」ということだ。
肉と言っても色々あるがここで定義する肉というのは一般的な収入で得られる一般的なスーパーで売られている一般的な鶏、豚、牛などの肉を指している。肥育ホルモン不使用グラスフェッドビーフや放し飼いで育てられた鶏、放牧で育った本物のイベリコベジョータなどであればその実害は少なく有益な面もあると考えられるがそんな高級な物を一般の人たちが毎日食べられる訳が無い。だからここでは一般のスーパーで売られている畜産動物を肉と定義する。

「その肉が毒だって?」

一言で言えば毒だ。
乳がん、前立腺ガンを発生させる確率を高めることが様々な研究で指摘されている。また、赤身肉は大腸がんを発生させる原因物質の前駆体である事もわかっている。(アミン類など)
確かに少量であれば問題はない。人間の体は本当にフレキシブルに色々なことに対応できるようになっていて動物性のタンパク質を分解する酵素も持ち合わせているからしっかりと消化して吸収することが出来る。
ただし、体がそこまで大きくなく、菜食型の腸内細菌を有してしまっている我々日本人は別だ。欧米人と根本的に違う。
欧米人が肉を常食するリスクと日本人が肉を常食するリスクでは天と地の差ほどの乖離がある。これは日本人の腸内細菌タイプ(エンテロタイプ)からも証明されている。日本人の腸は明らかに肉食に適していない。
事実、肉食が日本に普及し始めた1950年代から大腸がんの発症件数は指数関数的に増加している。古いデータでは1953年で60人程度しか居なかった大腸がん患者数が今では男女を合わせ15万人を突破している。

前置きが長くなったがつまり。

ストレス解消のための肉食は何一つ問題を解決していない。

そしてそのストレスは本質的には本来、必要ないものなのだ。

しかし、社会活動および社会生活を続ける為に多くの人は肉を食べる。

それも毒に満ちた肉を。

そして様々な病気を発症する。

そして、その類の労働が本質的には不必要である、と私は結論付けた。
なぜ、我々はそこまでして働かなければならないのか?
人が自然環境の中で生きていくための十分な知恵と道具は既に揃っているはずだ。食べるに困らないだけの食料を得る方法と雨風をしっかりと防ぐための建設技術を我々は既に有している。
なのに、我々はわざわざ気も合わない、人格的にレベルの低い人たちと無理をして一緒に仕事をして、その結果ストレスを溜め込み、肉を食べ、無理やりまた仕事に向かうという生活をしなければならないのか?
その答えこそが

「本質的に必要ではないモノを必要だと思いこんでいるから」

なのだ。
本質的に必要でないものは他にもいくらでもある。

・シャンプー
・リンス
・毎月購入する服
・様々な贅沢品
・3食の食事
・サプリ
・過度な化粧品
・洗剤
・柔軟剤
・芳香剤
・コンビニ弁当
・プロテイン
・アルコール
・白砂糖

などなど。上げれば切りがない。
これらを得たいとう衝動を否定するつもりはない。
得たければ得ればいいし、欲しければ手に入れればいい。
しかし、それを得るための労働によって心や体は疲弊していく。
発生したストレスを発散する為に食される肉や高血糖を引き起こす甘いモノによって健康は蝕まれていく。
いくらそれらを手に入れても、本当に必要なものに気がつくまでその消費は続く。このサイクルこそが大量消費社会の原因でもある。
結果として地球環境を破壊し、様々な動物たちの生き場を奪っていく。
意図的ではないにしても、我々はこの大量消費・大環境破壊社会に加担しているのだ。その歯車を動かしているのはほかでもない我々なのだ。

ちなみに。シャンプーや洗剤の代替品は重曹で補える。
重曹を水500ccに対して大さじ3,4杯入れて軽く煮立たせれば強アルカリ水が出来上がる。100円均一でも同様の洗剤が売られているが買う必要はない。
一瞬で自分で作れる。これをお湯で薄めて頭皮を洗えばアルカリ性の性質によって頭皮の余分な皮脂を洗い流すことができる。
衣服についた皮質も同様にこのアルカリ水を用いることで落とせる。
そしてこの強アルカリ水はとにかく安い。
食用レベルの重曹でもこの価格だ。

そして多くの人が知らないシャンプーやリンス、洗剤等に含まれる有毒物質にさらされることも無くなる。

自分で作ればなんだって安く済むのだ。

食事だってそうだ。

しかし、その方法を社会は与えない。

そして時間すらも与えない。

なぜなら、我々個人がそういった生きる知恵を身に付けてしまうと

依存性の社会が維持できないからだ。

社会は我々が無知で、なにかに依存しないと

生きていけないようなレベルの知恵しか与えない。

社会に依存して生きる我々は、お金に頼るしかない知恵しか持たず

その結果、社会に依存せざるを得なくなる。

そうして出来上がった依存から資本家たちは労働を搾取する。

問題の本質的な解決方法は与えず、一時的な憂さ晴らしをする方法しか

我々に提供しない。

お酒、肉、娯楽、セックス、テレビ。

一時的にその問題を忘れさせるだけの快楽を与え続け

本質的な解決ができないようにわざと仕向ける。

子どもの頃に考えたことがないだろうか。

なぜ学校でお金の使い方を教育しないのか?

なぜ学校で本質的な生きる術を与えないのか?

答えは簡単だ。

そうしてしまうと我々が社会に依存しなくなるからだ。

我々現代人が本質に目覚め、自立してしまうと

搾取する方法が無くなってしまうのだ。

資本家たちはそれを恐れている。

だから生きるチカラを与えない。

与えられるのは従順性だけ。

自尊心や自分で考える力、疑う力は奪われる。

そうやって自分で考える力を奪い、流される人間を量産する。

そうすることで彼ら羊飼いの立場を維持しているんだ。

恐ろしく感じるかもしれないが

これが真実だ。

わたしはこの事実が知りたくて24年間、もがき苦しんできた。
社会に反発し、ときに従順になるほかなく、安易な娯楽で一時的に気を休め、しかし心の底ではこの社会は間違いなくおかしいと疑い続けてきた。
その答えが24年目にしてようやく芽吹いてきた。
この話はまだまだ続く。
わたしは自己実現論や脳科学、生理学からもこの疑いに対する自分なりの解の立証を試みた。

真理は如何なるの疑問に対しても変わることのない答えを我々に明示する。

だからわたしは様々な方法で自分の疑いを疑ってきた。
その分だけ時間がかかってしまった。
遠回りもした。
でも、ようやく納得が行く結論が出せそうにある。
しかし言葉にするのはなかなか難しい。
だからまだまだ時間を要すると思う。
しかし、これこそがわたしの人生の仕事なのだ。
だからやめることはしない。
この為に時間を費やす結果、収入がなくなってホームレスになったとしても構わない。
なぜならこれこそがわたしがこの人生で知りたかった最大の疑問であり、わたし自身の生き方に対する答えだからだ。
それ無くしてこれからの人生は有り得ない。
だからわたしはこの仕事を完成させる。

もし、わたしのこの人生を賭けた仕事つまり

「人生の本質について」

この続きが知りたい。
本当のことが知りたい。
これまでずっと心に抱いてきたけど、誰にも言えずにいた社会に対する疑問に対する答えを知りたい。

そういった方がいましたら是非フォローをお願い致します。
もし、心の底から共感して頂けましたらSNSやブログなどで拡散して頂けますと幸いです。

わたしは自分の疑問に対する明確な答えが欲しくて研究してきただけなのでこのブログも利益のためには書いてはいません。
ですがもしこれを読んでくれた誰かが

「このブログには価値がある」

と感じて頂けましたらサポートして頂けると大変光栄です。
労働で得た大事なお金ですので価値があると感じて頂けたらで結構です。

ぜひ、宜しくお願い致します。

そしてこの話はまだまだ続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?