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【ショート】傍らのひと

 母が亡くなって一年が経った。父がリビングで日本酒を飲みながらテレビを観ている間に、冷えた寝室で首を吊っていたらしい。私が連絡を受けたのは、夫ともに布団に入ったばかりの頃だった。
 母はギャンブル依存症だったと、後に父から聞いた。私が幼い頃もパチンコ屋や競馬場に通い詰めていたらしいが、家に居る母は家事をこなしながら宿題を見てくれたり、清潔な布団の中で密やかなお喋りをしてくれたり、滞りなく親というものをやってくれる人だった。一つの疑いもなかった。
 その日も母は父に隠れて競馬場に行き、結果として貯金の半分ほどを注ぎ込み灰にしてしまった。仕事から帰宅した父に震えながら打ち明けた母を、父は大変怒ったのだという。母は目を赤くしたまま無言で夕食をつくり、箸と食器が触れる音だけが響く食事をした。先に入浴を終えた母はリビングを後にし、再び姿を見せることはなかった。

 火葬の場で母の残りかすを見て以来、私の夢には毎日母が出てきた。そのどれもが嘘のように優しい眼差しをしていて、目覚めたときの苦しさを加速させた。そして日を追うごとに眠ることがこわくなった。夜が随分長くなり、横で寝息を立てる夫の服を摘まんだり、足をくっつけたりして時間を潰す。すると健やかな寝顔をこちらに向け、太い腕が私の肩を引き寄せることがある。または僅かに触れている足を重いふくらはぎの間に挟んで捕まえたりする。もう積極的に夫婦らしいスキンシップや行為はしていないのに、新婚時の夫のぬくもりを思い出してしまい、一人切なくなった。そうしているうちに目を閉じていて、重くて深いところを漂い、薄暗い寝室に浮上する。  
 たいてい夫が携帯の画面を眺めていて、身動ぎをした私に気付き「眠れたか?」と声を掛ける。私が「わからない」と答えると、「昼寝でもしろよ」と言ってリビングに降りていく。言葉数の多くないところはいつも通りなので安心する。
 あまりに気持ちが沈んで外出が億劫になっていた頃、友人が連絡をくれた。母のことを人づてに聞いたらしい。電話口で彼女は神妙な声で言った。
 「真由子ちゃんのうつうつとした気持ちはお母さんに引っ張られているのよ。このまま放っておくとどうなるかわからないよ。私もね、そういうときがあってね。水晶がいいんだって教えてもらったの。○○の救いの水晶って検索してみて」
 早口で言い、「絶対よくなるよ!」と付け足した。
 その後すぐに携帯をタップし、教えてもらったサイトを探した。
 人の顔ほどの大きさの石のようなものが80万円と書いてあったのを見て、唾を飲み込んだ。ソファーの背もたれに寄りかかり、天井を見上げる。
 ここ最近、わたしは家事をひとつもできないでいた。体が鉛のように重くて掃除も炊事も洗濯も夫に放り投げていた。力仕事をして帰宅し、それらを担う姿に申し訳なさを感じていることは事実だ。この石が私の憂鬱を解消してくれるのなら80万円など安いものに思えた。爪の伸びた人差し指が軽快に「購入する」をタップした。
 それが届くと、祈るような気持ちで玄関に飾った。夫には縁起物だと告げた。
 「そうか」
 いつも通りの短い相槌を打つ。手のひらがじっとりと湿った。
 水晶と暮らしをともにし始めて一か月が過ぎても、相変わらず寝付くまで時間がかかり、心は落ち込んだままだった。期待外れもいいところだ。
 夫は淡々と朝の支度を終え、玄関へ向かう。筋肉質な広い背中を見つめていると、目の前が滲み出した。漏れそうになる嗚咽を下唇を嚙み堪える。
 ふと夫の足音が止まった。
 急いで俯いた私を見て、手を伸ばす。肩に重みが乗り、その体温を感じて両手で顔を隠した。しゃくりあげる声はもう止められない。
 「ごめん、こうちゃん…。私、謝らなくちゃいけないの」
 言葉を紡ぐことが苦しくしかたなかった。心臓が絞られているみたいだ。
 こうちゃんは言葉に詰まる私を見下ろして、肩に置いた手に力を込めた。
 「あれね、高かったの。…はち、はちじゅうまん、したの」
 視線を下駄箱の上に向けると、こうちゃんも同じように振り返り、「そうか」と呟いた。
 「別にいいよ。真由子が欲しかったなら、いい」
 こうちゃんの瞳はまっすぐに私を見る。微塵も怒気を含まない声に、私はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
 こうちゃんは、長い間私を抱きしめてくれていた。

 「あれ、片付けようかな」
 ダイニングテーブルに持っていたマグカップを置きながら言うと、こうちゃんは「そうか」と返す。そう言うと思った、と私は笑った。 
 まだ夜眠ることは苦手だ。しかし睡眠導入剤を処方してもらい、どうにか睡眠時間を確保できるようになった。心身の不調はゆっくりとだが軽快していて、一周忌を迎えるころには家事も外出もできるようになった。
 埃の被っている透明な塊を持ち上げようと手を伸ばす。すると背後から日焼けした長い腕が伸びてきて、信じられないくらい軽々と掴んで行ってしまった。
 「和室の押し入れでいいか?」
 振り返りながら尋ねられ、私は笑顔で応えた。



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眠れない夜に

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