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【ショート】結んで、開いて

 久しぶりに二人きりで飲みに来た。いつもは友人数人と利用する、洒落た内装の居酒屋に入ったら、開店してすぐだったせいか席は随分空いていた。
 四人席に向かい合わせで腰掛け、店員が持ってきた温かいおしぼりで手を拭く。もう何週間かすれば雪が降る、じんじんと冷えた指先がそう物語っている。千鶴ちゃんが曇った眼鏡を服の袖で拭きながら、「亜美、何食べる?」と聞いてきた。
「しめ鯖と、クリームチーズと蜂蜜混ざったやつー」
「フライドポテトも頼んでいい?」
「たのもたのも」
 千鶴ちゃんが声を上げて店員を呼ぶ。すらすらと淀みなく注文を伝える様子を見ながらお冷を飲み、出来る女だなあと感心する。千鶴ちゃんは真面目で成績も良いし、目上の人との会話の仕方も上手。そのくせクラスメイトの誰とも気さくに話すので、交友関係が広い。唯一の欠点は整理整頓ができないことだというが、個人のスペースは本人が不自由なく使えればそれでいいという意見の私にはまるで欠点には思えなかった。
「どうよ最近?」
 千鶴が言いながら携帯をテーブルに置き、私を見る。
「実習真っ只中のくせにこっそり飲みに来ちゃって不良だなあって感じ」
「私もじゃん」
「共犯だよね、勿論」
 にやにや笑い合う。千鶴ちゃんとの会話のキャッチボールが好きだ。何の為にもならない話を延々としているのが心から楽しい。
 店員がビールを持ってきた。そのジョッキを一つずつ掴み、控えめな声量で乾杯をする。実習で歩き回った体に少しずつ染み渡るアルコールが眼球の奥を熱くする。ジョッキから唇を離すのは同時だった。
 それからは実習とテストの話をした。どの実習先が大変とか、指導者が厳しいとか、次のテストは去年のテストの丸写しだそうとか、そういう学生らしい話。そして合間に冗談を言いひいひい笑う。破顔する彼女は普段表情からは想像し難いほど無邪気だ。私だけに見せるそんなギャップが好きだ。
「ていうか思い出したんだけどさ」
「うん」
 唐突に話を変える私を見て、千鶴ちゃんが息を整える。
「昔知り合いが車で人轢いてさ、逃げたの。轢き逃げ。その話を母から聞いたことがあってね」
「うん。どうしたのいきなりそんな真面目な話」
 みるみるうちに神妙な顔になっていく彼女に「いやいや大した話じゃないのよ」と付け加えてから、一口ビールを飲んで口の中を湿らせる。
「母がさ、すぐに通報すればよかったのに、って言うから、私逃げちゃった理由を考えてたのよ」
うん、と千鶴ちゃんが頷く。
 フライドポテトが運ばれてきて、私たちの間で湯気をくゆらせた。話しながら、ついつい手を伸ばす。
「それで、言ったの。きっとすごく怖いものみたんだね、って。血とか怪我とか、顔とかさ。もしどこか無くなってたり取れてたりしたら怖いんじゃん?だから逃げたんじゃない?って」
 ポテトは丁度いい塩気が効いていた。急いでジョッキを傾ける。千鶴ちゃんはただじっと私を見つめていた。
「そしたらさ、母が怖い顔ではあ?って言うの。違うんじゃない?人轢いた罪悪感とか責任の重さがあったから逃げたんじゃない?って」
「あー、私もそう思う」
「やっぱり?私さ、言われたとき全然ぴんとこなかったの。そんな目に見えないものを怖がるはずないって。でもずっと引っかかっててさ」
 千鶴ちゃんがうさぎみたいにポテトを齧っている。でも眼差しは真剣だ。私が感じているよりも真面目な話に受け止めているのかもしれない。
「頓珍漢なこと言ったのは分かったんだけど、今でも母の考えは分からなくて。おかしいよね」
 聞きながらテーブルの上に置いていた煙草の箱にとライターに手を伸ばす。一本取り出し火をつけ唇の間に挟むとと、吸い慣れた味に安堵した。
「いやあ、おかしくはないけど……変わってはいるかな。珍しい考え方する人って感じ」
 唇を尖らせる私に、「亜美らしいと思うよ」と笑って見せる、千鶴ちゃんの表情はとても柔らかだった。
 それからはまたクラスメイトの噂話をしたり、お互い恋人もいないのに恋愛観について議論を交わしたりした。
 時計の針は0時を指し示していた。



 学校を卒業してから7年もの時が流れた。
 職場が離れようとも都合が合えば酒を飲みに行き、たわいもない話に花を咲かせた。しかし亜美に恋人ができてからはとんと連絡が減り、会う機会も無くなった。亜美は夢中になる相手ができるとその人物を中心とした生活になる。学生の時もそうだった。正直蔑ろにされるのは寂しいが、それを告白できる程の勇気と厚かましささは持ち合わせていなかった。私とて彼女の奔放で軽率なところに惹かれているのだから。
 残業後に吸う煙草は美味しい。もう薄暗くなる頃には肌寒さが加速する季節だ。薄着の二の腕を擦りながら換気扇の前にしゃがみ込む。灰皿を床に置くと、山になった吸い殻が数本落ちた。まだ肩に引っかけたままのショルダーバッグの中から携帯を取り出す。LINEの画面を開けば、亜美から「20時でいいんだよね?」という内容で着信が入っていた。「そうそう。遅れるなよ!」と返信する。今日は5年ぶりの会合の日だ。胸が高まって仕方がなかった。
 短くなった煙草を無理矢理灰皿に押し付け立ち上がり、ものが散らばった部屋のどこかにある化粧道具を探した。
 時間通り、約束の居酒屋に着いた私は、窓際の席で彼女を待った。平日ということもあり、客は疎らだった。携帯を弄りながら待っていると、15分後に亜美は来た。
「あの、遅刻なんですけど?」
「ですよね。ごめんね、いつもいつも」
 遅刻して申し訳なさそうな顔をするのはいつものことだ。学生の頃と変わらない亜美の遅刻癖に思わず吹きだしてしまった。
「いいよ」
「ほんとごめんねー!」
 泣くふりをして私の腕に縋るので、もっと笑ってしまう。もうお互い三十路も近いのに、一緒にいると柄にもなくはしゃいでしまうのはどうしたものか。仕事の緊張感から解放された私は大きく息を吐く。
「ていうかさ!聞いてよ!」
 椅子に座るなり亜美は身を乗り出して喋り始めた。
「待って、何飲む?」
「ビール!」
 私が店のタブレットを触っている間にも、亜美は興奮した様子で「早く早く!」と急かしてきた。「はいはい」と答えながら視線を落とし、「注文」をタップする。
「私この前鹿轢いたの!」
「……はあ」
 亜美は両腕を目一杯広げて、「こんな大きいやつ」と教えてくれた。
「あの山の方のトンネル近くに道あるでしょ?夜だったからよく見えなくて、でもすっごい衝撃だったから何かに当たったなとは思ったの」
 店員が速やかにビールと梅酒ロックをテーブルに置いて去っていく。私たちは形だけの乾杯をした。
 亜美は相変わらず興奮したように喋る。
「で、やばい人轢いた、と思って。血溜まりの中に脳みそ剥き出しとか、骨出てるとか怖すぎるじゃん。絶対そんなの見たくないし。どうしようと思ったんだけどそのままにするのもおかしいし、様子見に出たら鹿でさ、ちょっと安心したんだよね」
 亜美は胸の真ん中に手のひらを当てて、ほんとびっくりした、と呟いた。
「もしそれ人だったたらやばかったね」
「ねー、鹿でよかった。って言うのも変だけどさぁ」
「……亜美はさ、やっぱり見るのが怖かったんだ?」
 亜美は目を丸くして私を見た後、手元のライターを鳴らした。それに倣い煙草を手に取る。
「昔言ってたじゃん。轢き逃げの話」
 ああ、と亜美は視線を上に向け、煙草に口付ける。吐き出した煙が天井に向かい細い線を描いて浮いていく。
「そうみたい。罪悪感なんて真っ先には思い浮かばなかったな。実はそんなもんなんじゃないの?みんな」
 まるで平然と言ってのける亜美の顔を見て、眉をひそめた。足を組み替えながら私は俯く。そして紫煙が目の前を通って行くのを見送りながら、静かに口を開いた。
「あのさ、昔うちの母親首吊って死んだって言ったじゃん?」
「ああ、うん」
「あれ最初に見つけたの私でさ」
「……うん」
 亜美は訝しげな表情を浮かべた。この話の行く末を図りかねているのかもしれない。テーブルには、お互い半量しか飲んでいない酒のグラスが寂しそうに佇んでいる。
 私は努めて淡々と話を続けた。
「小学校が終わって、その当時住んでたボロいアパートに帰ってきたら、キイキイ音がするの。不自然なほど静かなのに、玄関に居てもその音だけはっきり聞こえるの」
 亜美の顔が今度は痛ましそうに歪む。ぎこちない動作で煙草を灰皿へ押し付け、ビールの入ったグラスを仰ぐ。
「母親アル中でメンタルおかしかったから、子どもでもすぐにピンときた。これやばいなって。そんな母親の姿を見るのが怖くて、でも万が一を祈って扉を開けた。……まあ結局ダメだったんだけどね」
「……そっかぁ」
 私の声はきっと震えていた。思い出したくない記憶の蓋を開いてしまったことを後悔した。気付けば持っていた煙草の灰が落ちそうなくらい育っている。急いで灰皿を手繰り寄せた。
 亜美は目の前で小さく身を正した。
「すごいね。千鶴ちゃんはやっぱりいつも正しいね。私の考え、おかしいよね」
 ごめんね、と謝るので、私は首を傾げた。
「亜美は亜美でいいのよ。何もおかしくないよ。亜美はそうだし、私はこうってだけでしょ?」
「……そうかな?」
「そうだよ。亜美だって私が整理整頓できないこととか、人にイライラしてばっかりなこと変だって言わないでしょ?」
「う、うん」
 捲し立てると、今度は亜美が首を傾げる。その間に私は梅酒を飲み干した。真っ黒の携帯の画面をタップすると、ここに来てから40分ほどが経っていることが分かった。
「亜美にはね、亜美の考え方があるの。亜美のお母さんには亜美のお母さんの、私には私の考え方があるの。だから別におかしいことじゃないよ。……ま、他人の考え否定する人もいるけどさ」
 言い終えて、近くの店員に声を掛ける。レモンサワーを2つ注文した。亜美はきっと何でも飲む筈だ。
 あちこちに目を向けて、ようやくこちらに視線を定めた亜美が、眉尻を下げて微笑む。
「千鶴ちゃんのそういうとこ好きだなあ。私のダメなところ何も言わないでいてくれるの千鶴ちゃんくらいだもんね。いつもありがとう」
 亜美が深々と頭を下げるので、私は面食らってしまった。タイミングよくレモンサワーを持ってきた店員も、空気を察して速やかに離れて行った。
「亜美ちゃん、こちらこそいつもありがとう。そろそろ顔を上げようか」
 亜美は私の言葉に従い顔を上げると、その大きな瞳からは大粒の涙が垂れていた。ぼとぼとと音が聞こえそうだ。私は慌て置きっぱなしのおしぼりを掴み、彼女の顔を拭いた。すると、へへへ、と気味の悪い笑い方をする。おしぼりで隠れていない方の目が、涙で濡れながらも細められているのが見え、少しだけほっとした。
「千鶴ちゃん、これからもよろしくね」
 亜美が鼻声で言うので、思わず噴き出した。笑いながら私は答える。
「うん、末永くよろしく」
 その後私たちは楽しく酒を飲み、機嫌よく各々の巣へ帰って行った。
 向かい風は思いきり冷えていたが、火照った体には気持ちがよかった。

 毎日辛いことは沢山あるし、挫けそうになることも頻繁にある。しかし、心の底から辛くて限界を超えそうなとき、亜美が駆けつけてひょいと覗いてくれそうな気がする。弱い私が道を間違えてボロボロになっても、亜美が必死で手当てしてくれそうな気がする。
 彼女は飲み潰れて路上に転がっているサラリーマンに、声を掛ける勇気がある人間だ。たまたま同じ店の中にいた女性が意識を失って倒れたところに、真っ先に向かえる強い人間だ。
 見えないものは怖がるが、見えるものには手を差し伸べられる。亜美のそんなところを、私は尊敬している。
 彼女は知らないだろうけど。




 


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