10年前まで、会社員だった。
 家を出て会社に到着するには、片道で100分かかった。車内で過ごす時間は70分ほど。その間は英語のリスニング教材を聴いていた。
 会社の最寄り駅に着いたら、その瞬間からいつも同じ曲を聴くことにしていた。「これから仕事を始める」ために、自分を切り替える。そのスイッチが音楽だった。
 元々は、誰かのブログで読んだのだと思う。スイッチの入る曲を決めておく。毎日それを聴いて仕事を始めると、条件反射で脳が「戦闘モード」に入り、最初からフル回転で仕事ができるという。
 当時、会社に行くのがどんどんつらくなっていったわたしは、「戦闘モード」に入れる曲を決めようと考えた。
 大好きな作品であることが前提。これから仕事を始めるのだからテンポは速め。歌詞は気分が上がる内容、という条件で手持ちの楽曲を探した。
 候補の曲をいくつか聴いていく。
 イントロが流れた瞬間、「あっ、これだ!」と決まった。
 それが、プリンセスプリンセスのDiamonds(ダイヤモンド)だった。これなら「始動!」という感じになる。もうバンドは解散していたが、だからこそ、歌手や楽曲への新しい情報が付加されることはない。
毎日同じ「ルーティーン」のための曲になると思った。
 翌日から、毎日、毎日、最寄り駅に着いたときからこの曲を聞き始めた。
 「とにかく今日、いちにちを乗り切ろう」。先のことは考えず、今日を無事に過ごすことだけ考えて生きていこう。そのために必要なのが、この曲になった。
 改札を出るところから聴き始める。地上に出たところ、信号待ちの交差点、ビルに到着したとき、そしてエレベーターからオフィスのフロアに着く。こうした瞬間に流れるフレーズが、なぜか毎日ほぼ同じ箇所だった。信号が2か所あるというのに。
 スターティング曲としてDiamondsを毎朝聴いていれば、なんとか仕事モードになって毎日暮らしていくことができる、あと15年くらい持つかもしれないなぁと思っていた。
 そんなある日、「要精密検査」と書かれた一枚の健康診断結果が届いた。何度か検査が繰り返され、簡単な手術を受けるために2泊3日の短期入院をした。どうということはない手術だった。
 だが、そのあと電車内や会社内で失神することがたびたびあり、受診しても「原因不明。全身麻酔の後遺症かもしれない」と言われるだけだった。
 わずか2泊3日の入院だというのに会社復帰に失敗したわたしは、健康状態を理由に会社を辞めざるを得なくなった。Diamondsは、自分の挫折、ドロップアウトを意味する曲になってしまった。
 だから、その後バンドが再結成したときもニュースに顔をそむけていたし、ライブに行きたい気持ちも、新しいCDを購入する意欲も湧いてこなかった。
 昨日、身の回りの品を片付けていたらこの曲の入ったCDが出てきた。
 もう、自分のなかにネガティブさが溢れてくることはなかった。
 退社を余儀なくされた10年前には到底考えられなかったが、いまのわたしはフリーランスとして、きちんと生計を立てている。近ごろ、やっと地に足が付いて「自分の働き方」がわかった実感もある。
 ああ、この曲を今なら嫌な思い出もなく聴けそうだ。そう思い、昔「戦闘モード」に無理やり入るためであったDiamondをプレーヤーに入れて、再生ボタンを押した。
 あっ、こんな歌詞だったんだ。メロディ以外で、バックにこんな音も鳴っていたんだ。
 あの頃、毎日いったい何を聴いていたのだろう。
 そうして、わたしはもう、自分を「戦闘モード」に引き上げるために、楽曲であれ、何であれ、気合を入れてもらう「何か」を使う必要はなくなったことが、はっきりわかった。

#思い出の曲

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