翻訳は技術

 昨日、村上春樹が翻訳について述べたエッセイの感想で、「翻訳とは何か」を考えた。今日はまず、村上の言葉を再度引用する。

翻訳というのは創作作業ではなく、技術的な対応のひとつのかたちに過ぎない

本書283ページより

 村上は、翻訳は「技術」だという。英語にするならartになるだろうか。

「うまい訳」はAIに取って代わられる

 ここで、訳書を数十冊出しているほんにゃく仮面のYouTubeを紹介したい。ほんにゃくRadio「今から翻訳家を目指すのはやめたほうがいいの?」で言及されている。

 以下は久松のまとめである。
 ほんにゃく仮面は、「現在、翻訳は『正確』で『読みやすい、わかりやすい』のが『うまい(いい)翻訳』として評価されている」
 「だが、何年か後にAI翻訳が『うまい訳』をやる時代が来るかもしれないから、『うまい』訳ではなく、『すごい』訳を目指さないといけない。AI翻訳が広がっていくなか、『この訳者の訳で読みたい』と思ってもらえなければ人間翻訳者は生き残れない」と語る。

昔の訳のほうがよいという意味は?

 そして、名作の「昔の訳」と「新訳」(具体的な作品名には挙げていない)を読んでみると、新訳は物足りなく、昔の訳のほうがよかったと思うことが度々ある。翻訳の精度や読みやすさは新訳のほうが数段上なのにもかかわらず。そう続けている。
 理由としては、翻訳の技術も体系も確立される以前の翻訳書では、翻訳者が前に出て、好きなようにやっている。翻訳者の個性や経験が出ているからであるという。
 なお、ほんにゃく仮面はいわゆる「新訳」も何十冊も出している。その本人が「新訳」に疑問を呈しているのだ。

翻訳はartだとするならば

 翻訳はartであるとほんにゃく仮面は考える。いまの翻訳は(村上の言う)「技術(技巧)」のartだが、昔の翻訳は「芸術」である。「技巧」がAIによって肩代わりできるようになったら、翻訳も「芸術」の方向に立ち返らないといけない時代がくる。
 「読みやすく、わかりやすく、意味が合っている」翻訳ならばAIでできる。そうなったときに人間の翻訳には、文章から出てくる迫力が求められる。魔力ともいえるが、それをいい換えると、過去にどんな経験をして、どんな風に生きてきたかが訳文には問われるということになる。

人生が訳に出る

 いま、彼自身の人生の坩堝、大釜が煮立っている。そのなかで何が煮立っていて、何がrelease to goの状態になっているのか考えている。そういうものが文章にあらわれてくるはず。
 文章に表れてくる大釜の中味が勝負となってくる。彼にとって翻訳は、英語力や文章力を超えたところで、「自分の人生を賭けたバトル」であると語る。
 ちなみにほんにゃく仮面こと田内志文は、いま、わたしがいちばん上手いと思う翻訳者である。3か月前に書いたnoteを貼っておく。

「すごい翻訳者」が生き残る

 本書について原文と対照してはいないので「正確」かどうかは不明だが、日本語として自然で「わかりやすい」訳文を書く翻訳者だと思っている。むろん「うまい翻訳」「いい翻訳」である。
 その本人が「AIに負けないように『すごい』翻訳をするよう変えていく」と語る。
 大変なことをいっていると思う。10年近く前の村上春樹は、翻訳は「技術」といった。それに対して現在の田内は「(これからは)芸術」としているのだ。
 なお、わたしも田内と同意見だ。今後、いまのままの翻訳ではAIに負ける。その先に行った翻訳者だけが生き残っていく。それは誰なのだろうか。あまり翻訳書を読まないわたしだが、注目している翻訳者の訳書、もちろん田内の新刊は必ず読んでいかねばなるまい。

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