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ミック・ジャクソン著 田内志文訳『こうしてイギリスから熊がいなくなりました』感想

 自分の好みで本を選んでいると、どうしても読む本の文体もジャンルも偏ってくる。そこで、ときどき友人に「何かおもしろい本ない?」と聞くことにしている。今回もそうしたら「小説ならこれ」と帰ってきた。ブッカー賞最終候補作家による8つの短編集である。
 ほとんどの短編が人間vs熊で、わがままな人間に熊が振り回される。挙句の果てに、ある日突然、人間にとって必要で、熊が担っていた労働をやめて熊たちが去っていくとか、熊が人間を襲ったりするという構図である。 
 だが、いちばん恐ろしいのは6番目の「市民熊」である。途中まで読んで、それまで人間のように振る舞っていた熊が、仕事で組んでいた人間を襲い、文字通りずたずたに引き裂いていく話に違いないと確信した。だが、結末はそうではなかった。ほかの話とは異なり、熊は相棒のストゥンリーをボロきれのように、「精神的に」ずたずたにする話なのだ。熊が人間を「精神的に」追い詰めることができるなんて。背筋が凍るというか、波打ちそうに恐ろしいとはこのことかとぞっとした。
 noteにこのストーリーの感想を書こうと思い、もう一度読み返してみた。すると、「全然違う」のだ。これは相棒を精神的にだけでなく、肉体的にも奈落の底に突き落とす話なのである。熊が人間に対してこんな働きかけができるなんて。復讐ほどの憎しみはなく、一時の激情でもなく、ただ仕事相手を「見限る」ためだけの行動。いや、行動というよりむしろ「行動しなかった」のである。これがどういう意味なのか知りたい向きは、ぜひ本篇をお読みいただきたい。
 そして、読み終わって気づいた。読んでいて日本語にまったく違和感がなかったことを。翻訳書であるのに、まったくそれを感じさせない。最初から日本語で書かれた作品のように読める。翻訳業界に身をおいていると、よく「翻訳者の技を感じる」などと言う。だが、本書にはそれすらない。翻訳者は黒子だというが、まさにそのとおりで、著者の影に隠れてその存在を見せない。本書のストーリーは決して読みやすいものではないのだが、翻訳書を読んでいて時々感じる「こういう言い回しは翻訳書だからだろう」という感じがまったくしない。すなわち、翻訳者がほんとうにすごいということだ。この翻訳者の訳書は初めて読んだが、もっともっと読みたくなった。

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