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①現象学超入門!要約しました!(京大時代)byインテリ・レオン

【フッサール心理学宣言 他社の自明性がひび割れる時代に】

 渡辺恒夫 講談社 

フッサール心理学宣言

今回は「インテリ・レオン」ということで、やや難しいですが、

【現象学】

に関して、僕が学生時代に必死に勉強したことの一端を皆さんに共有します!

ゼミでまとめた部分を抜粋しながら共有するので…この記事の需要は日本で1年間に3人くらいな気もしますが…。苦笑


ちなみに僕がこの【現象学】に惹かれた理由や経緯をごくごく簡単に言葉にすると、


「自分の経験を探究することの意義を応援してくれている気がしたから」


という一言に集約できるかなと。

今の現代、「科学」といえば、「数値で正しいと証明すること」

みたいな印象ありますよね?

僕はそれがあまり性に合わなかったので、

違う科学性、学問的論拠に依拠したかった、というわけです。

これは科学哲学で言うところの「自然科学」と「人間科学」の違いなわけなんですが、それらに深入りするのはここではやめておくとして笑、

この【フッサール心理学宣言 他社の自明性がひび割れる時代に

という本は、入門として、そしてまた原書に当たった後で戻ってきても非常に頭の中が整理される優れた本だと思いますので、その中のある章を要約したものを、以下に抜粋しておきます。


世を儚み、哲学の世界に耽りたい人

日常の世界の見方を変えたい人

現象学に惹かれている研究者

難しいことを少しだけ学んでマウントを取りたいと思っている人(笑)


なんかに、届けばいいなぁ。

僕がかつて、一人孤独な世界で探し続けた真理の探究の一端を、そっと置いておきます ^^) 

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第四章 ここで念のため、現象学超入門

【フッサールとはだれか】
省略


【〈現象から本質へ〉から〈現象そのものへ〉】

この一世紀間で、人類の知性の歴史におけるモチーフが、
〈現象から本質へ〉から〈現象そのものへ〉
へと180度転換しつつある。


・〈現象から本質へ〉というのは、ガリレオ・ガリレイに代表される、近代ヨーロッパの科学革命以来の科学観。
例)「現象」としては、大地は不動であって太陽は東から昇り、夕方には西に沈むのである。が、それは「錯覚」に過ぎず、科学が明らかにした天体運動の「本質」とは、地球が太陽の周りを回るということであった。

代表的〈現象から本質へ〉学者
・ガリレオ…自然科学
・フロイト…精神分析
・マルクス…社会科学
→しかし21世紀、こうした科学者たちに代表される科学に対する信仰の凋落と共に、「現象を現象それ自体として探求する」という方法論を編み出したフッサールの現象学の意義が高まっている。そしてその方法論の中核をなすのが、『現象学的還元』である。


【現象学的還元とは何か】

現象学的還元とは、反省によって、
「思い込み」を「現象」という確実な知識へ還元することである

「還元」=ドイツ語で「Reduktion」
①単純なもの、もしくは原則的なものへの還元
②縮小、削減
→「あやふやな思い込みからなる知識を、確実な要素だけからなる知識へと縮小すること」

例)目の前のテーブルに花瓶がある。しかし、この花瓶は本当にそこにあるのだろうか。もしかしたら幻覚か夢かもしれない。「テーブルの上に花瓶がある」という認識は思い込みに過ぎず、「臆見(ドグサ)」に過ぎないのではないか。
そこで、その事態に関して確実なことは何かを「反省」すると、「テーブルの上に花瓶が存在するように私には思われる」ということだと分かる。「花瓶が客観的に実在すること」は確かでなくても(これが確かかどうかを検証しようとするのが自然科学?)、「花瓶が存在するように見えること」、つまり「花瓶という現象が存在すること」(私の認識・知覚において少なくとも私にとっては、という意味で「存在する」ということ?)は確実ではないか。

フッサール

エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl )

【フッサールがソルボンヌ大学デカルト記念講堂で講演する】

・フッサールは自分の現象学を、「超越論的現象学」と呼んでいる。
「超越的」=ドイツ語で「transzendent」
①経験(知覚)できる範囲を越えた
〈哲〉超越的な、〈俗〉超自然的な
→「経験もしくは知覚できる範囲を越えた」が妥当

「テーブルの上の花瓶の、今、知覚している面という現象」を徹底的に反省することによって、その現象の構造の内部に、裏側を備えた超越的存在としての花瓶を、誰も見ていなくとも存在している花瓶という客観的実在を、私が信じている根拠を見出す

という課題が、フッサールの超越論的現象学の最初のテーマとなる。
→花瓶がそこに「ある」と知覚する以前の(超越的)世界における、「ある」ということの根拠を見出すこと?純粋経験(西田,2003)として想定している世界に近い?


【判断停止・志向性・キネステーゼ】

・「デカルト的省察」で目指されたのは、「学問的知識以前の、私たちの世界に対する素朴な思い込みの根拠を問うこと」であった。

・我々は「世界そのものが、私たちが生まれるはるか以前から存在し、私が眠っている間も存続し、死後も存在を続ける客観的実在であると信じている」が、このような客観的に実在する世界という、「臆見(ドグサ)」のなかでの最大の「臆見(ドグサ)」をフッサールは「世界信憑」と呼び、それに対してなんらの問題をも感じない私たちの日常的態度を「自然的態度」と呼んだ。

 花瓶を例にとると、今目の前にある花瓶は、花瓶を見ている私から「知覚されている側面(私に見えている側面)」と、「客観的に存在すると考えられている側面(今の私には見えていない側面)」が存在する。この後者の、見えていない側面を、(見えてないけど普通に考えたらそりゃあるっしょ、という常識的な)判断を停止する(判断停止-エポケー)というのが、現象学的還元の重要なステップ。

 そして、世界全体に対して判断停止(エポケー)を行った結果現れる現象の世界を、「現象野」と呼ぶ。「現象野」とは、知覚世界であるだけでなく、想起や予期や想像といった思考作用が絶え間なくなされ、イメージや思念が行き交う意識世界でもある。

知覚現象にだけあって他にない本質的特徴は何か。それは、「~として知覚する」という意識の働きであり、このことを「志向性」と呼ぶ。「志向性」は「意識は常になにものかについての知識である」というと誤解を招くので、「意識現象は常になにものかについての意識現象として現れる」という方が良い。

 では、そうしてなにものかについて志向する際、「知覚」する次元と、「想起」や「空想」の次元とでは何が違うのであろうか。それは、「キネステーゼ(運動感覚)」の有無によって峻別されるとしている。この「キネステーゼ(運動感覚)」とは、〈私は動く〉という視知覚的変化や自己受容感覚が一体となった感覚のことであるが、単に手を握ったり歩いたりといった実際の運動にだけ伴うのではない。

 例)テーブルの上にあるさいころの周りを回るという行為を考えてみる。さいころの各方面から見た現象を「現出」といい、各「現出」が志向するのがさいころそのものである「現出者」とされている。さいころの周りを回っているとき、私たちは断片的な「現出」のみを見るのではなく、おのずからそうなってしまうという意味での受動的現象として「あらかじめ予描的に意識され」(未来把持)、また見えなくなった側面も完全に消えるのではなく「過去把持」として存続し、それらをもって「主観的現在」を構成している。


【他者という難問】

 他者とは、私を客観にできる他の主観であり、私が世界を超越論的構成の主体としての超越論的主観性であるというならば、他者も他の超越論的主観性なのである。このような自己と他者とのまったき対等性を、「自己と他者の等根源性」と呼ぶ。

すなわちフッサールが他者問題において見出したのは、「主観-客観」の問題ではなく、「主観-主観」の問題、すなわち「間主観性」であった。これは、私が世界の内で他者を経験するように他者もまたこの私を世界の内で経験するという相互性の中にあるため、「相互主体性」と訳されることもある。「間主観性」、「相互主体性」はまた、世界の客観性の超越論的な根拠でもある。

 例)テーブルの上の花瓶のような事物存在の客観性は、誰の意識経験の内でもその「超越」が妥当なものと判断されることによって、最終的に保証される。換言すれば、テーブルの花瓶は、私にとってだけでなく誰にとっても客観的な存在として判断されるがゆえに、客観的に存在する、ということである。


考察 ~語り合いのアイデンティティ心理学~


問題は、こうした方法による「もの」に対する客観性の保証は可能であっても、「他者」に関しての客観性の保証は不可能である、という点にある。
ここから先は、「他者理解」に関する論考が中心。ゆえに、完全に一致するといえるかどうかは定かではない が、大倉(2011)の「私」と〈私〉の峻別等、語り合い法の中核的議論に依りながら概説した方がより理解が深まるのではないかと考えた。

以下は、大倉の書籍からの引用

(*大倉得史先生は、僕の京大博士課程時代の指導教官です…お世話になりました!)

 「『事象そのものに還る』ための『現象学的還元』を『加工』と見ることは、現象学者たちから反発を受けるかもしれない。しかし、私見では常に事象を意味づけながら生きている主体が、その意味づけを保留して再度事象を分析しなおすといった試みをする時点で、主体によって生きられている次元からある意味『距離をとる』ことになる。ただし、それは決して否定的な意味で言っているのではなく『生きられる』次元を明るみに出すには、現象学的方法で『距離を取る』しかないということを、私は認めている。(大倉,2011,p312)」

 こうしたことから大倉は、了解しようとする〈私〉(後述するが、これが「超越論的自我(純粋自我)」として「私」および「他者」の内面生活を了解しようとする〈私〉と同様のものだと考えられる)による完全なる現象学的還元の不可能性を認めたうえで、そうした方法を洗練させてゆくことによってのみ「生きられる次元」に迫ることが出来ると考えていることが伺われる。また渡辺(2013,p102-103)も、「超越論的自我(純粋自我)」に関してマッハ的自画像を例に挙げ、「マッハ的自画像として描像された現象野には、常に『私が』という意識が、潜在的にではあっても伴っている」とし、「『私が知覚している』という意識が伴っている。これが超越論的自我ということなのだ」と述べているように、完全なる現象学的に還元された超越論的自我(純粋自我)の存在を否定している。

 またメルロポンティは、「還元の最も偉大な教訓とは、完全な還元は不可能だということである(Merleau-Ponty,1945/2011,p18)」とし、その理由を「われわれは世界の内に存在しているのであるから、また、われわれの反省さえもが、自分の捉えようとしている時間的流れのなかにみずから身を漬けているのであるから(フッサールの言うように、反省は流れてゆくものであるから)、われわれの一切の思惟を包摂するような思惟なぞは存在しないわけである」と述べている。
 すなわち、完全なる超越論的自我(純粋自我)も完全なる現象学的還元がなされた世界(現象野?)も彼岸にしか存在しないが、それでもそうした現象学的な方法によって、「遍事象的真理」(大倉,2011)へと近づいていこうとすることこそが、現象学の意義であると言えるのかもしれない。


長くなってしまったので、別の記事にて、大倉先生の

「語り合い」のアイデンティティ心理学(大倉,2011)

に関して、引用を交えながら考察していくことにします。


もし一人でも、ここまで読んでくれた方がいたら、僕はとてもうれしいです!


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