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心理学は何を目指しているのか? 「語り合い」のアイデンティティ心理学(大倉,2011) byインテリ・レオン

こんばんは!

インテリ・レオンです

ここでは、前回の現象学の超入門に引き続き、大倉得史先生(京都大学・僕の元指導教官…笑)の書籍を引用しながら、心理学が現在探究している境地の深淵を覗きにいきます!

興味がある人が一人でもいますように…( ;∀;)


【心理学が目指すものは何か】

心理学がその彼岸に指向するのは、人間の内面生活の了解である
それを了解するには、誰かの内面生活が質草として与えられていなければならない
究極的にはそれは各研究者固有の「私」の内面生活である

・心理学においては、〈私〉と「私」の峻別は最初の出発点である。
・了解とは、〈私〉がある体験や内面生活を生きる「私」にもう一度住み込むこと


・日常性を生きる「私」の「主観」を吟味する〈私〉の〈主観〉は、フッサールが言うところの「超越論的主観性」に近いと思われる。

・<私>が「私」について記述するということは、自らにとって究極的な意味では不可能な「私」についての了解をどこまでも繰り返していくことなのである。


・逆説的にも、 <私>と「私」の峻別とは、 <私>がいかに「私」と分かち難いかを自覚することであり、「私」を「絶対的客観的視点」から見ることができるような超越的な<私>には決してなり得ない-自然科学のような匿名の記述主体などにはなり得ない-


・「他者」は「間主観的存在」として、つまりはその志向性を幾分かは開示し幾分かは包み隠した存在として、いつもすでに私の現実性の内に立ち現われている性質のこと(以下、例)

間主観性はシニフィアン であるということ、シニフィアンそのものであるということ、しかも主体によって純粋に意味するものとしての目的だけで扱われているために、その意味されるところは謎のままである、そういうシニフィアンであることLakan,1981/1987)
私たちのメッセージは、言葉で伝えることができないものを、あとに残す。そしてそれがきちんと伝わるかどうかは、受け手が、言葉として伝え得なかった内容を発見できるかどうかにかかっている(Polanyi,1958・高橋,2003)
われわれが患者から聴き取ったことは、そのほとんどが後になってやっとその意味がわかってくるようなものであるという事実を忘れてはならない(Freud,1912/1983,pp78)


・相手のことを本当に分かろうとする場合には、すべての了解を一旦保留し、もう一度当時の「私」に住み込んでみることによって相手の了解を問うべきである。それは同時に、「私」や「他者」の志向性の在り方を問うことであって、他者の言動からその内面生活を「推論」することではない。すべての意味決定を一旦保留して、もう一度「私」、「彼」、「間主観性(〈私〉)」の三者を一から構成し直すことである。


*インテリ・レオンの考察*


 大倉の言うようにしてもう一度その場の事象を構成し直すことで切り開かれてくる、納得性の高い言説やその場の事象の深部(遍事象的真理?)というものは、メルロポンティが「現象学的世界」(Merleau-Ponty,1945・木田,2011・p 31)という言葉で表しているものに相当するのではないかと考えられる。真理とは何なのか、全き真理は存在するのか、どの様にしたら迫れるのか、我々研究者は何を目指すべきなのか…。以下,メルロポンティの言。

「現象学的世界とは、何か純粋存在といったものではなくて、私の諸経験の交叉点で、また私の経験と他者の経験の交叉点で、それら諸経験の絡み合いによってあらわれてくる意味なのである。したがって、それは主観性ならびに相互主観性と切り離すことのできないものであって、この主観性と相互主観性とは、私の過去の経験を私の現在の経験のなかで捉え直し、また他者の経験を私の経験のなかで捉え直すことによって、その統一をつくる。」
「現象学的世界とは、先行しているはずの或る存在の顕在化ではなくて存在の創設であり、哲学とは、先行しているはずの或る真理の反映ではなくて、芸術とおなじくある真理の実現なのだ。」
「すなわち、哲学も哲学をその一部として含み込んでいる世界もおなじく、〈はじめから〉顕在的または現実的なものであり、したがってどんな説明的仮説といえども、われわれがこの未完の世界を捉え直してこれを全体化したり思惟したりしようと努める行為そのものよりも、いっそう明確であることはないのである 。
 合理性とは、一つの問題ではないのであって、合理性から出発してわれわれが演繹的に決定したり帰納的に証明したりせねばならぬような、或る未知数なぞは存在しない。すなわち、われわれは諸経験の接合というこの驚嘆すべき事実をたえず目撃しているわけであり、したがって、それがどのようにおこなわれるかを、われわれ以上に知っているものは誰もいないのであって、それというのも、われわれこそがこの諸関係の結び目だからである。」
「真の哲学とは、世界を見ることを学び直すことであって、その意味では、物語られた歴史も哲学論文とおなじだけの〈深さ〉をもって、世界を意味〈指示〉することができる。」


【遍事象的真理】

 大倉(2011)における、了解の保留と再体制化によって見出した言説が持つ納得性、明証性、真理性とはいかなるものなのか。またそれを「遍事象的真理」と呼んでいる大倉の考えとはいかなるものなのか。そこで以下に、「物語論」との対比のなかで、「超越的真理」と「遍事象的真理」について論じている部分を引いてみることとする。(大倉,2011・p327-328)

(ある人が生の事実性を組織化して作り上げた「既製品」としての「物語」(現実性)に対して、各「物語」を比較検討する中で「真理」に迫ろうとすることの是非に関して。ここでの「真理」とは、ある「物語群」を貫く「事実性の組織の仕方」のことを指す。簡単に言うと、物語論は「真理」を目指していないというが、それでは研究者の生み出す学知は何でもいいことになってしまう。では、どのような「真理」を目指すべきか?ということに関して。)


【その「真理」は全ての事象、全ての「物語」をそれによって説明してしまえるような絶対的原理としての「超越的真理」ではなく、出会われた「物語」全てに「一応」妥当するような「遍事象的真理」、新たな「物語」が現れたときには再び検討されねばならないような「遍事象的真理」である 。また、事象の説明原理であるというよりはむしろ、その事象そのもののより深い意味の発見である。】


【私の議論も協力者の語りも、確かに「物語」ではある。しかし、そのどちらともに「遍事象的真理」(*)により近い、「真理性」の高い「物語」となることが稀にあるのだと、私はそう考えたい。恐らく先に挙げた社会構築主義的な言説、全ての「物語」は「あくまで一つの意味の秩序の創造、一つの現実の創造であって、それがより確かな現実であるという保証はない」という言説も、これまでの幾多の「物語」に出会い、それが更新され続けるのを見てきた結果生み出された一つの「遍事象的真理」として、それ固有の価値を持つものなのである(もっとも、やはりそれは注意深く検討されねばならない)。】


* (大倉,2011・p328・注釈*95)
例えば、多数の被験者に対して統計的手法を用いて知見を導き出すような数量的研究の場合、有限な数の被験者を通して「誰にでも当てはまる」一般法則が導かれる。ここには有限なものから無限なものへの跳躍があり、そういう意味で数量研究は「完全な知」を目指していると言えるかもしれない。一方、協力者一人一人の「生きる物語」を地道に探求していく語り合い法では、常に完全には了解できない領域が残り、そこでの知は「不完全な知」に留まる。それは必ずしも悪いことではなく、そこにこそ一人の人間をよりよく了解する余地が、また次に出会う人の生に丁寧に向き合う姿勢が生まれるのではないか。そして、そうした視点のもとでは、各「物語」は決して「多様だが等価なもの」や「一般法則のもとに没個性化されたもの」ではなくなって、ときに了解をぐっと深めさせるような極めて意味深いものからそうでないものまで、ある程度の優劣がつけられるものになるのではなかろうか(そうでないと研究者の生み出す学知という「物語」は何であってもいいことになってしまう)。大変混乱した「真理」概念の用い方であるが、ここでは概ねそういったことを述べようとしている。


まとめにかえて

以下に、メルロポンティ(Merleau-Ponty,1945・木田,2011)の知覚の現象学「序文」における論考を抜粋し、まとめとする。

まず、現象学について、

「われわれはわれわれ自身のなかにこそ、現象学の統一性とその真の意味を見いだすであろう。問題はいくつも引用文献を数え立てることではなくて、むしろわれわれにとっての現象学を定着し客観化することであって、そういうものであればこそ、多くのわれわれの同時代人たちがフッサールやハイデガーを読んだ際、或る新しい哲学に出会ったというよりは自分たちが待望していたものをそこに認めた、という印象を持ったのである。現象学とは、ただ現象学的方法によってのみ近づき得るものだ。」

と述べている。また

科学批判の文脈において、

「私は自分のことを世界の一部だとか、生物学・心理学・社会学の単なる対象だとかとは考えるわけにはゆかないし、自分を科学の領域の内側に閉じこめてしまうわけにもゆかない。私が世界について知っている一切のことは、たとえそれが科学によって知られたものであっても、まず私の視界から、つまり世界経験(experience du monde)から出発して私はそれを知るのであって、この世界経験がなければ、科学の使う諸記号もすっかり意味を喪くしてしまうだろう。科学の全領域は生きられた世界のうえに構成されているものであるから、もしもわれわれが科学自体を厳密に考えて、その意味と有効範囲を正確に評価しようと思うならば、われわれはまず何よりもこの世界経験を呼び起こさねばならないのであって、科学とはこの世界経験の二次的な表現でしかないのである。科学は知覚された世界と同一の存在意義をもってはいないし、また今後もけっしてもつことはないであろう。その理由は簡単であって、科学は知覚された世界についての一つの規定または説明でしかないからだ。」


として、私の世界経験が、科学が問題にする「知覚された世界」以前に存在する根底的なものであると語っている。まさしく、


「人間はいつも世界内に在り(世界にぞくしており)、世界のなかでこそ人間は己を知るのである」

ということであろう。そうしたことをもとに、

真理について語っているのが以下

である。


 「われわれはほんとうに世界を知覚しているかどうかは問題にすべきではなくて、むしろ逆に、世界とはわれわれの知覚している当のものである、と言うべきである。もっと一般的に言えば、われわれのもっている明証性ははたして真理であるかどうかだとか、あるいはまた、われわれにとって明証的であることも、われわれの精神の或る欠陥によって何か真理それ自体といったものにたいしては錯覚ではないだろうかとか-そんなことを問題にすべきではない。
 なぜなら、われわれが錯覚について語るからには、われわれはあらかじめすでに錯覚を錯覚として認めていたはずだからであって、また、われわれがそうすることができたのは、ただ、そのおなじ瞬間に真なるものと証明されるような何らかの知覚の名においてのみであり、したがって、懐疑とか誤謬を犯す懸念とかは、同時に誤謬を誤謬として暴露する我々の能力の存在を確言するもので、だからわれわれを根本的に真理からひき離してしまうものではあり得ないわけだろう。
 われわれは(はじめからすでに)真理のなかに居るのであり、(われわれのもつ)明証性がそのまま〈真理体験〉なのだ。知覚の本質を求めるとは、知覚というものはあたまから真なるものと前提されるようなものではなく、ただわれわれにとって真理への接近として定義づけられるものだと、こう宣言することである。」


結論

 つまり、人間はいつも世界内に(現象学的身体によって)在り、それによって世界のなかで己を知る存在であると同時に、本源的にはじめから既に真理のなかに居る存在である、ということではないだろうか。
 そうした真理のなかにある存在でありながら、我々は様々な臆見(ドグマ)によって真理から遠ざかっている。そうした真理世界の領域(現象野)に可能な限り迫るためには、反省(エポケー)をすることで現象学的還元をおこなってゆかなければならない。しかしこの現象学的還元によって、客観的に存在する事物の客観的同定は可能である反面、他者理解に関してはその全き真理に到達しうることはできないという結論に達してもいる。

 この結論は、人間理解・他者の内面生活の了解という問題を考える際、(行動主義など他の方法論に比して)現象学的還元による他者理解の方法論の脆弱性を露呈するものであるというよりはむしろ、もっとも謙虚でもっともその実態に即した結論であると言えるのではないだろうか。そして、その不可能性を前提としたうえで他者の内面生活の了解を保留し、丁寧に吟味し再構成していくなかで到達することが可能になるのは、現象野に限りなく近い、納得性・明証性の高い遍事象的真理なのである。

つまり我々はすでに真理の中に在る、ということであろうか。


参考文献
西田幾多郎 2003 善の研究(西田幾多郎全集 第一巻所収)岩波書店 
小嶋洋介 2009 純粋経験と現象学的経験-場の理論のための一考察-成城大学紀要

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