『完全無――超越タナトフォビア』第百四章
ウィッシュボーン
「きつねさん!
ご誕生おめでとうございます!
想い出された誕生の瞬間、それこそがきつねさんの現象界でのお誕生日ということになりますでしょうか。
そのような貴い秘話が明らかとなった第百三章とはまさに第百讃章と言ってもバチは当たらないのではないでしょうか。
ウィッシュボーンと致しましては、無限と有限という対義語、いや、きつねさんにとっては、対義語は存在しないんですよね、失礼致しました。
訂正いたしますが、ともかく、世界の既存の枠組みのすべてを超えたい、というきつねさんの根源的欲求が、完全無-完全有としての世界そのものを現出させたのではないかとひれ伏してしまいそうではありますが、まあ、きつねさんをあまり天狗状態に祀り上げるますと、きつねさんに鼻で笑われそうなので、これぐらいの発言に留めたいと思ったのですが、もう少しだけウィッシュボーンの他愛無くないおしゃべりにお付き合い願えませんでしょうか。
たとえば、仏教が人々を救える、と保障できるのは、それらの人々が死ぬ直前までである、という見方もありますし、禅宗のお坊さんであった一休さんの最期のことばとして都市伝説的に語り継がれている「死にとうない」なども、小さくも歴然としたひとつの根拠となるのではないでしょうか、ということを申し上げたい次第であります!
禅の教えとは高度な仏教哲学、というよりも究極の体験であるはずなのです。
ですが、その禅ですら、ひとりの人間のタナトフォビアつまり、死に対する恐怖症を克服することはできなかった、ということを如実にあらわしているのが、その一休さんの逸話ではないでしょうか。
すべての宗教における死生観というものは、それらの人々が生きている間だけの認識をその場しのぎ的に誤魔化し、精神を偽善的にあやし、真の恐怖から目を逸らさせるために、つまり人々の脳をよかれと騙すためだけの洗脳的代物だったのかもしれないのです。
もちろん、宗教的営為というものは、人間が存在する限り消え去ることはないかもしれませんし、消え去ることが最高の良策だとは思いませんし、決して宗教的営為を全般的に貶めるために、このように息巻いてるわけではありません。
あくまでもウィッシュボーン個人としての、愚にも付かぬ一見解だと思っていただければ幸いです。
ウィッシュボーンと致しましては、きつねさん哲学、いやきつねさんなら非哲学と仰るのかもしれませんが、とにもかくにもその思想に救われた、いえ、目下進行中で救われている状態、そのゾーンにどっぷりと浸かり始めているのだと感じています。
はは!
うれしき体験ですね、これは。
しかしですよ、この作品においてはきつねさんに同調する登場人物しか出てこないところがミソでしょうか。
対立者無き、まったく対話的でない、アンチ・ポリフォニックな、立体感のない平板なノンフィクション小説的エッセイになってしまいますね。ですが、そういうところも良しとしたいところです。
なぜって、ウィッシュボーン、バトル物の作品には食傷気味ですし、そこだけに創作物の本懐が宿っているとも思いませんので……」
きつねくん
「チビはこのノンフィクション小説的エッセイののっぺりとした哲楽的な感じ、どうおもう? そう、たのしいほうのテツガクのフンイキとして」
チビ
「チビがたのしいのは、夢中になって犬ファッション雑誌のナチュラルメイクのページを読んでるときかなー。
作品?
てか、きつねきんのしゃべくり漫才はちょっとだけね、のっぺり?
チビのかおは、のっぺりしてるかなー、えー? それはない!(キッパリ)」
(そしてチビは愛らしげなウィンクを、おごそかで華奢などこか異国のお姫様が、ガラスの階段を音も立てずに昇り切るときの呼吸のゆらぎみたいに、きつねくんへと投げる。)
しろ
「まあまあ……、なぜなにかがあるのかというと、それは、目の前にあるフライドポテトが知ってるきがするぅ、ぐふふぅ、と」
(しろは七つの海の平らげたかのように万歳しながらぼっそりと、しかし確信に満ちた人工知能のようにつぶやいた。)
(なんとそのとき、マックの店内全体が天性の力量を思い出したかのように息を吹き返したのであった。)
(清澄な騒々しさと、程よくあかるさのある無関心さとが手と手をを取り合って、こっそりと各テーブルをふたたび縫い閉じ始めたのである。)
(チビたちは、完全無という「世界の世界性」に関連する哲学の観点からは、もちろん存在しないのだが、科学的には、つまり一般的日常性を規定する観察においては、虚構の存在ではなく、現実として存在する存在者、つまり実在者であるはずであろう。)
(なぜ、チビたちの実在性をそこまでゴリ押しできるのか、ということのちょっとした回答に関しては、おそらく最終章近辺で出現する可能性が高いことだけはこの時点で予告しておこう。)
(そして、わたくしきつねくんが、谷川俊太郎の詩のような存在論的なくしゃみを二発ほど完全無へと発射することで、この章は終わるのだ。)
(もちろん、くしゃみは完全無には届かない。)