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『完全無――超越タナトフォビア』第五十一章

ある、ということなど、どこの誰でも当たり前のように、素朴実在論的に、見知っていることではないか、と言わないでほしい。

当たり前のことを当たり前として認識することが、どれだけ難しいのか、ということを人間には知ってほしい。

そして「ある」ということがある限り、愛というもっとも当たり前の、つまり、陳腐なことばを使うならば、ア・プリオリに存在する情態性に均(なら)された道、常識的生活において歩いてゆかねばならない道を、人間は真や偽を超えたレベルで見つけることも、不可能ではない。

もちろん、「世界の世界性」への鍵としての【理(り)】には、アプリオリ(より先なるものから)もアポステリオリ(より後なるものから)も文様として刻まれてはいない。

なぜなら、世界には前後がないからである。

祭りの前も、祭りの後もない。

経験に幅はない。

そもそもすべての一般的経験は、「世界の世界性」においては有意味ではない。

話を元に戻そう。

人間は、たとえ愛を見つけることができずに(非哲学的な意味で)死んでいくとしても、達成されたあらゆる可能性などという陳腐な発想で世界を捉えない限り、すなわち無限と有限とを超えた完全有においては、愛を見つけることも、たとえそこに自由意志はなくとも、たやすいと決めて掛かることができる、ということだ。

完全有としての世界に対する、些細な幻想のテロリズムとして、また、常識性の旗のすべてを引き裂くことのできない非力な革命として、愛に逢着することは可能である、ということだ。

欺瞞という転覆された「ナマの事実」として経験し得る、ということだ。

世界の完全性に対する戦略を、全地的に展開し得るこころというものを、人間は持っている、ということであり、それは頼もしくはないが、どこかいじらしく、儚いがゆえに強さを希求する、そんなけなげな「奇跡」を秘めているということが、なんとも微笑ましいではないか。

しかし、あらゆる可能性の成就という「可能性」は、世界の本来的なあり方、すなわち完全有においては、ない、ということをここでもう一度予言しておこう。

詳しいことは後章に譲るとして、ともかく本来的には、あなたというものはどのような多元的宇宙を想定しようとも、ない。

あなた、という可能性が不可能である、というよりも、世界においては完全性だけが仁王立ちしている。

あらゆるものがすでにすべて溶け合っている、と安易に思ってみてもよいが、そこで立ち往生してはならない。

もうすでに、すべてが(ただし、すべてとは、あらゆる多くの物事のことではないのだが)起こってしまっている以上、愛のある時間と、愛のない時間などという心情的な比較論に引き裂かれて何になろう、という結論に至ることは、実は論理的にもたやすい。

世界とは無限を超えて、極限の点すら見当たらない、というよりも、そもそも点なるものが元より存在しないほどに、すべて、ある。

わたくしの言う「無限を超える」とは、不死身の生物のように永遠に動的な、数学におけるマンデルブロ集合(とある図形の部分が、その図形の全体そのものと合致してしまう、すなわち自己相似性を宿した図形)の、限りない蠢きのように、無限でありながら発散することなく有限に留まる、という意味ではない。

もうすべて経験済みなのだ、人間も世界も。

あらゆる偽名を名指されるところの存在者の存在として。

そして、すべてが「ある」がゆえに、自他の区別などつけられない、対義語はあらかじめ超えられている、ということが、この作品を読むことで読者の腑に落ちてゆくだろう。

世界や「すべて」などという大きな主語について狐が何を語ろうとも、無意味である、などと侮らないでほしい。

世界や「すべて」には大きさはない。

そもそもが主語の大きな話をしているわけではない、ということ。

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