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言葉に「当たる」話

フランツ・カフカ『父への手紙』のドイツ語を読んでいる。

カフカは『変身』で有名な──ある日、目を覚ましたら虫になっていたという出だしはかなり奇抜だ──ドイツ語圏の作家で、そのイメージはずっと「暗い文豪」という感じだった。決して明るい性格ではなく、書くものも「自殺しようにも窓から飛び降りる元気すらない」といった調子で、とっつきにくい。

しょせん自分が生まれる前に死んだ人だ。歴史上の人物で文豪で、遠い国の人。カフカに親しみを覚える要素はほとんどなかった。だから、本を買ったときも「『父への手紙』って確か、強さの権化みたいなお父さんとソリが合わないって内容だったよな……。”あなたにとってなんの苦にもならぬことが、僕にとっては棺桶の蓋になりうるのです”ってフレーズだけ知ってる」くらいの気持ちだった。カフカは自分にとって、ずっとカッコ付きの「カフカ」。

だから、手紙の最後に「フランツ」という彼の名前だけが唐突に出てきたとき、少し驚いた。父親に宛てた手紙だから、わざわざ苗字である「カフカ」を書く必要はどこにもないし、息子なら最後に名前だけ書くだろう。それはわかるのだけれど、その「フランツ」という5文字(Franz)からは、なんだかすごく生々しいものを感じた。

確かに誰かの子どもとして生きていたフランツ、文豪ではないカフカの顔が浮かび上がってくるようで、悪酔いしたような気持ちになる。いつもなら「遠い国の、違う時代の作家」くらいの距離を置いて見られるのに、そのときだけは、父親との確執に悩み抜き、決して理解されない慟哭を書き綴る息子の姿が一気に迫ってきて「ウッ」となった。

名前っていうのは、それだけで放り出されると、どうしてこんなに頼りない感じがするんだろう。苗字で書かれると、その人はどこか記号になるというか「ああ、○○家の人ね」という感じで済まされるのだろうが、名前だけの存在はやけにパーソナルだ。確かに生きていて、悩みも苦しみもする人間だという気持ちが強くなる。

食中毒にかかった時、人はそれを「当たる」と呼ぶけど、まさに「言葉に当たった」みたいだ。たった5文字で具合が悪くなる。良くも悪くも、こんな経験をくれるのはフランツ・カフカその人だけだ。

文学を読むっていうのは、実際のところ、あまりお上品な営みじゃないと思う。言葉に酔ったり揺さぶられたりすることも覚悟しなきゃならない。その「当たる」ことまで含めて、読むという行為は成立するのかもしれない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。