見出し画像

【小説】詐欺師の娘たち-5

 嘘の何が悪いのか、少しもわからない。それは現実を消し去る華やかな夢、人を励まし慰める美しい社交辞令、マッチ売りの少女もそれがあるからわずかなあいだ生きていられたような、温かく優しい幻想。「真実こそがいいことだ道徳的だ」と言う人間は、底辺まで落ちたことのない、幸福で高慢な人間だ。必要な人間に必要なだけ、娯楽のように与えられる嘘しか私は知らなかった。かつての不完全な父親に、金しか愛されなかった女たちにも同情したことはない。目の前の男がなぜ泣くのは、血の繋がらない娘には理解できない。
 人を貶めようとついた嘘じゃない、騙す気があって口にする嘘じゃない。父のそれは、道徳に愛された者にしか持てないような葛藤だった。友達にも家族にも、本当の自分を隠している、父はそんなことをボソボソと、切れ切れに聞き取りにくいくぐもった声で言う。
 私は初めて、この完璧な父にうんざりする。
 男を好きだったらなんだと言うんだろう。それで母と結婚したのが罪悪だと思うのか。でもあなたは私の父親になった。子どもを持ち、愛情を注いで育てている。あなたは金のために詐欺師になる必要がなかった。女たちの泥だらけの感情が体に流れ込んで吐く夜も、立っていられないほどのめまいも知らない。恐らくは温かな家庭に育ち、ただ人と違う性別を好きになるからと言って、人はここまで自分を哀れむものだろうか。体が冷えていくのは、潮風のせいだけじゃない。もうすぐ夜になる。夜の港の海は黒い。黒くて汚い。
 ふと心の声が漏れた。
 お父さんが誰を好きでも、お父さんは私のお父さん。
 父は顔を上げて、呪文みたいだね……と力なく笑った。やっとのことで「父親」の顔に戻った彼は、ようやく娘が冷え切っているのに気づき「早く帰ろう」と立ち上がった。
 こんなところにいたら風邪をひくよ。

 案の定、風邪をひいたのは父のほうだった。母はごく自然にお粥を作り、父の体温を計り、熱取りのシートをおでこに貼って、風呂に入らずに済むよう、体を拭くための温かいタオルを運んでいる。私はそれを全部、凝視してから部屋に駆け込み、メモを取る。普通の人間は、風邪をひいたらこうして看病するものなんだ。誰からも教えられなかったことは、自然に身に着かなかったことは、ぎこちなくても後天的に覚えるしかない。温タオルの作り方、濡らしてからレンジで温めること。お粥の作り方は知らない、あとでお母さんに訊く。体温計の場所は薬箱の中。「くすりばこ」っていう箱があって、そこに「大体の物」は入ってると母は言った。それが意味するものを事細かに私は書く。何種類かの絆創膏、ピンセット、消毒薬、小さなはさみ、包帯、体温計。名前がわかるものはそれだけ。そのぐちゃぐちゃな走り書きのメモを、私はポケットに突っ込む。それから、母と2人の食卓に出ていく。

 お父さんとどこにいたの?港。そんな短い会話と、うつむいて無口になった娘の姿で母は勘づく。お父さん、港で何かしてた?何も。ずっと海見てた。あんたは?
 母親が私を「あんた」と呼んだのは、それが初めてだったかもしれない。
 気が付いたら喋っていた。友達だという男を見送る父の顔、長いあいだ芝生の上で動かなかったこと、前に見た夢の話。父の話の詳細までは言うことができなかった。母を傷つけるような気がしたから。孤児院の暮らし、トーコのこと、そこからどれだけ出たかったか。その前の暮らしの話はしない。それは母の望む話ではないから。
 彼女を目を見るのが怖かった。だから喋り続けた。男のいない女たちが自分に何をくれたのか、いまなら思い出すことができた。真っ暗で、冷たくて、吐いて、めまいがする。どこまでも落ちていく。誰も助けてくれない孤独な部屋、体に流れ込む惨めさ。
 母からそれを喰らったら、もう生きてはいけないような気がした。私は毎日、吐くんだろうか。怖い夢を見て起きて、またここから出してくれと祈るんだろうか。せっかくここまで来たのに……!彼女の目の中にどんな孤独も見出さないことを祈りながら、永遠に近い時間を私は話し続ける。私が語れるのは自分の話しかない。すべてが曖昧で、何を言いたいのかわからない子どもの喋りを、彼女は黙って聴く。そして言う。
 あんたは私たちの娘よ。子どもでいるっていいことばかりじゃない。私もいい母親だって自信はない。でもね、ちょっと顔を上げてほしいの。
 私はビクッとした。バレた、と思った。それでも顔を上げろと言われて、上げないわけにはいかない。そんなつもりはなかったのに、視界は潤んでよく見えなかった。
 母は言う。
 私は、娘が欲しかったの。お父さんとの間にはできなかったけど、そんなことどうでもいい。別に自分で産む必要もなかった。どうしてあのとき、あんたを選んだと思う?あんたは孤児院に馴染もうとしてなかった。そこじゃないどこかに行きたいって全身が言ってた。そうでしょ、見ればわかるわよ、1人だけ髪を伸ばして、覚えてる?体にアザもあって、馴染まないって決めたせいで痛い目に遭ってた。でも譲らなかった。自分はそこにいるべきじゃない、って思ってたでしょう。
 強い口調で話し続ける、その声は少しも震えていない。両目の色は黒いけれど、その奥に深い闇はない。母の瞳の周縁が、やや青みがかっているのに、そのとき初めて気づく。黒、緑、青、茶色、本当は人の目には、たくさんの色が混じっているのかもしれない。
 私は娘が欲しかった。あんたがここに来た、十分よ。

 その次の日に髪を切った。病み上がりの父はそれを見て一瞬、目を見開き、今度は思い切り笑う。娘が可愛くて仕方ない父親の顔。なんだよ、髪が短いほうが可愛いよ、ははは。そうしてくしゃくしゃと私の頭を撫でる。お母さんとはまた一味ちがってるなあ、お母さんのはボブで、お前のはショートヘアか、そっかそっか。
 母は微笑む。洗うのが楽でいいわよ。でもお風呂に入ったらしっかり乾かしなさい、じゃないと起きたとき寝癖がひどくなるんだから。父は可愛いと連呼する。私は訊く。
 どうして私の髪、まっすぐじゃないの?
 お父さんの髪だって生まれつきボサボサだよ。
 外国の血が入ってるから?
 日本って、昔からいろんな国の人が流れついてるのよ、北はロシアでしょ、南は東南アジア、中国から朝鮮半島を伝っても、もちろん。
 海の道とか言うんだっけ?
 そうそう。
 お前にはまだ難しいかな、そうだ、地球儀を買ってあげるよ。

(続く)

前回までの記事はこちら。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。