パンをおいしく食べる、それが文化

「人はパンのみにて生きるにあらず」とは、「人は物質的に満たされるだけではなく、精神的にも満たされる必要がある」という意味で使われる。それを受けて書かれた、長田弘の詩「イタリアの女が教えてくれたこと」の一節が、なかなかいい。

パンのみにあらずだなんて
うそよ。
パンをおいしく食べることが文化だわ。
まずパンね、それからわたしはかんがえる。

長田弘「イタリアの女が教えてくれたこと」『食卓一期一会』、晶文社、p.82-83

「文化(culture:カルチャー)」とは、ラテン語の「耕すこと(cultura:クルトゥーラ)」から来ている。この言葉は、他にも「養成、修養」「交際を求めること」「礼拝、崇拝」という意味を持つ。耕すことと、他の意味との関係は、いまいちよくわからない。

ただ考えてみれば、農耕に携わる人たちは、自然への畏敬の念を持っているし、そこから「崇拝」に繋がるのかもしれない。そして、人と関係を築くことは、その人との関係を育み耕していくという意味で「農耕」と繋がると言えなくもない。「養成、修養」は、自然や世界との付き合い方を学んでいく、という点で「耕す」ことに関係するのか……。

と思っていたら、派生語の「cultus」という形容詞は「耕された」「洗練された」を含意するらしく「あーなるほど、耕す=人の手が加わる=洗練される、か」と納得した。同じ「cultus」という表記でも名詞になると「耕作」という農業的な意味合いの他に「住むこと」「手入れ、居住」「育成、教育」など、動物と人間を分ける要素がそこに含まれていることがわかる。農耕=人間的な営み=文化、という風に理解しておいて、大きな間違いはないだろう。

調理する、というのも人間に独特の営みであって、それを思うと

パンをおいしく食べることが文化だわ


という詩の一節は、最初に読んだ時よりも説得力を持って響いてくる。「食べたい」という気持ちが本能的なものでありながら、料理が文化になりえるのは、そこに人の手が加わり、洗練されるからであり、パンをおいしく食べることこそが「人間らしさ」なのだと言うことは可能だ。

もちろん、もともとの意味をだいぶ離れてはいるけれど、ひとつの台詞の解釈は、無限に自由であっていい。「人はパンのみにて生きるにあらず」を「物質的なものに囚われながらも、いかに楽しく生きるか」それが文化だ、と読み替えることもできる。

詩を分析するなんて野暮だと言われるかもしれないが、作品の楽しみ方はみんな違っていい。パンの食べ方がひとつじゃないように、作品の解釈も色々あっての文化なのだ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。