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赤毛のアンを思い出して

今日は氷室冴子を初めて読んだ日。

 モームだの、フォークナーだの、トルストイだの、ドストエフスキーだのと、作家の名前を知っているだけで、
(あたしって、かしこぉい!)
 と思う年頃だから、『赤毛のアン』なんてガキくさくて、およびじゃなかった。

氷室冴子『マイ・ディア 親愛なる物語』角川書店、平成2年、12頁。


 素直な文章だ。上に出てきているどの作家もさして深くは知らない身としては、幼い頃から有名どころに触れているだけで幸福に見える。(このあいだ第二次世界大戦の話を書いたせいで「こうふく」の最初の変換が「降伏」になっていた。幸福。)
 
 サマセット・モームは『月と六ペンス』がおもしろかった。フォークナー読んでない、トルストイ読んだっけ?ドストエフスキーは『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』は既読、高校生の小遣いをはたいて文庫本を揃えるくらいには感動した。その他は未読。ぜんぜん読書家じゃない。
 
 氷室冴子という人も、このエッセイで初めて知った。調べてみたら『なんて素敵にジャパネスク』の作者らしい。タイトルだけは聞いたことがある。ひょっとしたら同姓同名の違う人の可能性もあるけど、判別がつかない程度には知識がない。たぶんこの人だろう。他に作家らしき氷室は出てこないから。
 
 彼女にとってアンは「ガキくさくておよびじゃなかった」わけだけど、それでも読む機会が訪れる、そういうエッセイをいま読んでいる。『マイ・ディア』におさめられた「いとしのマシュウ」は、赤毛のアンの優れた感想文だと言っていい。
 
 想像力豊かでとにかくしゃべり好きのアンは、最初に孤児として里親に会うところから、もうずっとしゃべっている。駅まで迎えに行った、お父さんとなるべきマシュー相手に、アンは初登場から口を動かしてやまない。
 

 駅まで迎えにきてくれたマシュウを相手に、アンはペラペラペラペラとしゃべり続けます。(中略)
 孤児で、よそさまの家に預けられて、愛情に飢えていたアンは、娘として当然の愛情を、正面きって要求することができない。
 だから、おしゃべりで自己主張し、しかも、そのおしゃべりを人に注目してもらうために、おしゃべりを”芸”にまで高められるようなユーモアやら、とっぴな発想やらをとぎすませてゆく。もちろん、なかば無意識のうちに。
 そんな孤独な、愛情に飢えた女の子の気持ちは、私にはなんとなくわかるような気がするのです、気がするだけ、ですが。

氷室冴子『マイ・ディア 親愛なる物語』角川書店、平成2年、39-40頁。


 だからアンが「天真爛漫で屈託のない」少女として描かれるアニメなんかを見ると「しっくりこない」と作家は書く。自分が読んだとき、そこまで考えたっけなあ……。
 
 思い返してみれば確かに、小学生のころ初めて読んだときの印象に似ている。アンは沈黙に耐えられない子で、相手からの致命的な一言を受ける可能性にいつも怯えている気がした。そう、「男の子じゃないなら引き取れない」とか「孤児院に帰れ」とか。誰かと接するときに、常にうっすら怯えている。アンにはそういう面がある。
 
 自分で買って読んだ本じゃなかった。同級生のマミちゃんが貸してくれた。最初の『赤毛のアン』だけじゃなく、シリーズ全巻貸してくれた人だった。いま思えば、マミちゃんもまたおしゃべりで、人の顔色をうかがいながら場を盛り上げるところがあった。大人の目には、ああいうのが「ただの素直で天然な子」にしか見えなかったりする。
 
 アンが映画やアニメになるときも、そういう無自覚な残酷さに突き当たるときがある。作家はそう書く。怖いなあ。ああいうのは作り手の解釈がにじんでしまうから。原作をアニメ化や映画化する人は、自分の内面を晒す覚悟がないとできない。「あなたは女の子は天真爛漫でいてほしいんでしょう、でもアンはそういう子じゃないのよね」という作家の目。



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