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取り戻したい

おしゃれは好きだった。好きなはずだった。揺れるスカートも長い髪を巻くのも、服の組み合わせを考えるのも。時々面倒に感じることはあったし、いつでも完璧に気を遣っていたわけではないけど、自分が楽しめる範囲では好きだと思っていた。

自粛が続いて、何を着ても見る人がいなくなった。オンラインで連絡を取り合う分には、身だしなみを整えて出て行く必要がなくて、外に出るのは、いつものスーパーに行くときか、散歩か本屋か。華やかな場所で外食することもフォーマルな場所に出向くこともなくなって、よそ行きの服はもう長いあいだ着てない。

今日、いつものダウンコートを着て髪を後ろに結んで外に出たとき、なにか「もう駄目だ」という思いが湧いた。身だしなみを整えることへのモチベーションが、もう保てない。私がボサボサの髪をしていようが、どれだけ突飛な服の組み合わせをしていようが、きっと誰も何も言わない。誰も見てない。

綺麗にするのは手間暇がかかる。髪を巻こうと思えば、ヘアアイロンが温まるのを待って、それから髪の毛を上げたり下ろしたりして巻くことになる。服を着るなら、何に何を合わせるのか考えて、一回はそれを着て鏡の前に立って、それで駄目なら組み合わせを変える。手間暇はかかるけれど、それは誰かの前に出て行くときの習慣だった。

その「誰かに会う」ことがそもそもなくなって、面倒なことがすべて省略できるようになった。髪はひとつに結んだらいい、服は寒くなければなんだっていい。持っている鞄とコートの色が、いかにチグハグでも構わない。誰も見ないから。それはとても楽であると同時に、いままでの習慣が崩れ落ちて、自分がなくなってしまうような感覚でもあった。

髪の毛はとにかく顔に触れて邪魔だからという理由で一本結びにしてばかり、とにかく寒くないように、組み合わせはどうあれ服を重ねて、温かければそれでいい──。実用性だけで身だしなみを決めていると、だんだん心が枯れていく。実用性は確かに大事だけれど、そればかりだとつまらない。何が楽しくて生きているのかわからなくなってしまう。大げさだけど半分、本音だ。

「服なんて着られればいいだろう」と言う人は、それが食事だと思ってほしい。楽しみのために食べていた食事が、ある日突然全部カロリーメイトになって「栄養は摂れるんだから十分だ」と言われているような、そんな気分なのだ。

カロリーメイトは嫌いじゃないけど、私はプリンもサラダも鶏肉も食べたい。合理的なだけのファッションを止めよう、明日から人間を取り戻そうと、そんなことを考えてる。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。