仕方ないと思うこと

人に優しくなれない人の気持ちは、あるところまでわかると思っていて。それは、自分が切羽詰まっているときに他人のことなんてケアできない、という状況があるのを知っているからだし、もっと言うと、余裕を失くした時に誰かを傷つけたという自覚が自分にもあるからだ。

優しい人は損をする、ように見える。何かというと、公共機関で席を譲らされる。他にたくさんの乗客がいるのに、よりによって疲れているあなたの目の前に、何か言いたそうな顔でお年寄りが立っている。あるいは、誰がやるべきかよくわからない雑務を、とても自然に押し付けられる。あなたがやらなければ誰もやらないから、あなたは空気の圧力に負けて、本当は誰かがすべきことを一人で背負う。

そういうことが続くと、他人への寛容さが発揮できなくなる。当たり前だ。もう一度書く。そんなことが続けば、人に優しくできなくて当たり前だ。だから、他人に対して無限に優しくなれない自分を責めなくたっていい。親切は好意によるものであって、義務じゃない。

大きな声では言いにくいから、そっと言う。あなたが親切にしたくないなら、それで追い詰められてしまうのなら、別にしなくたっていいよ。それであなたが壊れてしまうかもしれないのなら、いつも誰かのタスクを背負い、居場所を譲る必要なんてない。これを冷たいと非難する人がいたら、ならあなたは他人に無限に優しくできるんですか、どうぞしてくださいと言えばいい。

どうしてこんなことを書くのか。コロナ禍に必要なことかと思ったからだ。

薬局のレジで、スーパーの売り場で、クレーム対応の電話口で、フロントで働くすべての人たちに社会の苛立ちが集中している。平時だってそれほど楽ではないのに、有事になってもっと苛立ちをぶつけられ、それでも邪慳にすることもできなくて、もうこれ以上、私たちに丁寧とか優しさとかケアとか求めないでください、限界です、とあちこちから声がこぼれる。

優しくしなくたっていいよ、不機嫌で冷たくてもいい。結果として自分が手痛い扱いを受けるかもしれないし、それはもちろん嫌だけど、それでも仕方ない。だっていまみんな余裕がないのは、お互いわかっていることだから。自分は、それを我慢できず怒鳴り出すほどに切羽詰まってるわけじゃない。とりあえず正気を保っている自分のところに、いま誰かの負の感情が回ってきても(悲しいけれど)仕方ない。

絆も優しさも素晴らしいけど、それに殺される人がいるのも知ってる。だから安易に「みんなで前向きに乗り越えよう」なんていうことは言えないんだ、自分は。いま絆とか気にしてる場合じゃない。とにかく正気を保って生き延びる、それだけ。優しいとかケアしてあげられないとか、二の次だと思うよ。たくさんの人の良識と優しさに殺される前に生き延びてください。今日書きたいのは本当にそれだけ。余裕がなくて当たり前。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。