愚かさと祝福
古代ギリシャ三原則と言えば、「汝おのれを知れ」「関与は禍いをもたらす」、それから「求めすぎるなかれ」。
最後の「求めすぎるなかれ」はわかりやすい。欲をかくな、さもなくば痛い目に遭う……といういましめは世界のどこにでもあって、どこにでもあるということは、人間隙あらば欲をかく生き物だって話でもある。
民話でも物語でも、求めすぎたが故につまづく話は多い。どこでもこういう物語が好まれるのは、求めすぎる人はみんな嫌いだからなんだろう。そんな奴は最後にはコケればいい、と人々は思っている。みんな自分が求めるのはいいけど(だからいましめが必要になる)、他人がそれをしているのは不快なのだ。
人の粗ならよく見える。「みずからは全身が疾患にさいなまれていながら、他人の美しい背中についたイボを嗤う気か」と書いたのは、ローマの哲学者だったか。
程よい欲なら、野心にあふれる若者のように、見ていて美しいものだけど。人生を楽しくしてくれるのも、程よい欲求だとは思うけど。何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、やり過ぎは見苦しい。このいましめはわかりやすい。
二番目の「関与は禍いをもたらす」は、文字通り読むと「君子あやうきに近寄らず」と同じに見える。でもそうじゃない。これはもともと「安易に保証人になるな」の意味で、かなり現実的な警告になっている。
保証人かあ。古代ギリシャにもいろいろあったんだろうな……と思ってしまう。現代でも家族によっては「連帯保証人にだけは絶対になるな」を家訓にしているところもある。これは古代の昔から、変わらぬ教えであるらしい。
もっとも「なんにでも首を突っ込んでいるとロクなことがない」と言葉通り読んでも毒にはならない。「関与は禍いをもたらす」。
それから「汝おのれを知れ」。これは意味の変遷がある。最初はデルポイの神殿に掲げられた言葉だった。ギリシャ語の発音は「グノーシ・セアウトン(Γνῶθι σεαυτόν)」。アクセントまで付け加えると「グノー(⤴)シ・セアウト(↑)ン」。
神殿に掲げられていた、ということは、神から人へのメッセージになる。「人間よ、身の程をわきまえよ」くらいの意味だ。古代ギリシャでは(昔の日本もそうだけど)神のお告げが社会的に重要な地位を占めた。
神託を下すのは神であり、死すべき人間の分際でそこに踏み込んではならない。もとはそういう意味だ。当時のギリシャ社会(奴隷がいたり、女性は市民にカウントされなかったりする)を思えば、もうちょっと敷衍することもできる。「共同体の中での自分の地位、身分をわきまえよ」。
いまではこの警句、哲学の授業でこの意味で習う。「みずからの無知を自覚せよ」。自分が本当のところ、なにも知らないことを直視せよ。そうして何も知らないにも拘わらず、物知りであるように振舞うのはやめること。
大哲学者ソクラテスが「グノーシ・セアウトン」をこう解釈したので、そこで歴史が変わったのだ。「神 対 人」の言葉だったものが、「対 自分自身」に変わっていく。わたしは何も知らない、そこから哲学が始まる。
哲学(フィロソフィア)とは「知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)」ことを意味する。知恵を愛し求めるのは、それを持っていないからだ。すでに持っているなら焦がれる必要がない。持っていないから、求める。「わたしは何も知らない」、そこから知恵への愛が始まる。
人間であるのは不完全なことだし、神さまのようにすべてを知っているわけにはいかない。でもだからこそ、何かを新しく知ることができる。最初から何もかも知っていたら、生きるのはとても退屈だろう。人間であることは、愚かでありながら祝福されている。そう読んでも悪くない。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。