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【詩を紹介するマガジン】石垣りん(2)

 石垣りん、代表作がひとつに絞れない。【詩を紹介するマガジン】の8回目では「貧しい町」という詩を引用した。今回の「カッパ天国」は、その辛辣さに射貫かれて以来ずっと忘れられない一篇。

「カッパ天国」
 
そこで、お勤めのほうはいかがですか
と、きた。
 
「重いですよ、月給が」
 
多すぎて重いのですか、とはさすがに
聞かなかつた。
 
無い、と生きてゆけない
その重たさ、だ。
 
それはごく、うすでの枯葉色の
紙製品で、私の生活をつつむ
ただ一枚の衣裳で
いわば、かっぱの背にはりついているアレ。
 
精神の恥部はまるだしで
顔に化粧するご愛嬌。
 
このへん、みんなカッパだから
まあいいや。
 
(ひよっとすると人間は、どこかの寓話の川のほとりに、住んでいるかも知れないな)
 
私はにつこり笑つて
いつた
とてもいい所なんです。
 
ある日、遠くからきた新聞記者に答えたこと。

 「精神の恥部はまるだしで/顔に化粧するご愛嬌」。ここを読むと「ウッ」と言葉に詰まってしまう。この二行はときどき頭に浮かんでくる。
 
 誰も我が身を顧みない。内面の醜悪さや愚かさは隠そうとはしないのに、見た目だけは綺麗に整える。そういう場面に出逢うたび、あるいは自分の中にそれを感じるたび。
 
 私たちは寓話に出てくる滑稽な妖怪そのもので、単にそれに気づいてないだけかもしれない。葉っぱで局部を隠す人々を未開だと笑う立場にはなくて、せいぜい葉っぱが紙幣に変わったくらいで、それでも恥部は隠しきれない。
 
 自分の滑稽さに気づきながら生きる、というのは、すごく精神力のいることだ。石垣りんはそれをずっとやっている。働いているときも料理をしているときも。滑稽でありながら逃れられない現実を、正面から黙って見つめている。
 
 むかしのお給料は「月給袋」に入れて手渡しだった、その時代の人だ。一ヶ月働いて、紙幣の入った封筒をもらう、それがどんな気持ちだったのか。うまく言えないけど、すごく恥ずかしい気持ちになったんじゃないか。
 
 枯葉色のお札。このために働いている自分。それに生活を包まれていて、ないと生きていけない。家に持ち帰るまで落とさないように、キュッと手に力を込める。ないと生きてゆけない、その重たさ。
 
 タイトルの「天国」が意味するのが、宗教的な架空の場所のことじゃないのはわかる。心正しき者が死後に行けるあれとは関係がない。
 
 これは「歩行者天国」というときの意味、ドラマなら「イケメン天国(パラダイス)」なんてのがあったっけ。つまりは不自由しなくって、周りがみんな「それ」だから、何も不安も心配もない、そんな楽しい場所。
 
 みんな河童なら、愚かさも滑稽さも平気に思える。赤信号、みんなで渡れば怖くない。このへんみんなカッパだから大丈夫、恥部まるだしでも生きていけるって、ヘーキヘーキ……。
 人間の天国は尊い場所かもしれないけど、ここはカッパ天国なんだというネーミングセンス。笑えるようでとても悲しい。詩人が自分に向ける辛辣さに、詩人じゃない自分は耐えられない。
 優しくもない美しくもない、ぎりぎりの詩をこの人は書く。月給の重たさ、生活することの重たさ。
 
 石垣りんの詩は、怖い。怖いけど読むのをやめられない。読むたび繰り返し、辛辣さと鋭さで突き刺してくるような詩だけど、それは嫌な傷にはならない。下手な言葉で慰撫されるより鋭いナイフで切られるほうが、マシなこともある。
 
 何年も前に、おばあさんの書いた癒しの詩集がベストセラーになっていた。前向きにまっすぐ生きていくことを平易な言葉で応援するもので、多くの人が「癒された」と言った。こういう癒しの流行る時代に、厳しく辛辣な詩は歓迎されないかもしれない。
 
 それでも石垣りんはいい。だから二度目の紹介。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。