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道ができる、道を作る

「どうしてここに道ができたんだろう……」夜道を歩いていて、ふとそんなことを思う。

世の中にはいろいろな道がある。川に合わせて蛇行しているもの、昔の参道がそのまま舗装されたもの、あるいは登山人だけが知る山道。それらをすごく雑に分けるなら「自然にできたもの」と「人工的なもの」の二種類だろう。

人が踏みしめてできた道と、大人の事情(都市開発とか)で「作られた」道。自分が歩いている道は、そのどちらなんだろう。例えば駅に向かうまっすぐな歩道は、駅ができると共に作られたものだろうか。それなら、駅周辺が廃れたり、駅そのものが消えたりしたらどうだろう。あのまっすぐな道も消えるんだろうか。

昔なら、人の歩かないところはすぐに自然に呑み込まれたのだろうけど、今は多くがコンクリートで舗装されている。人がよく歩く道と、人気のないそれとを見分ける方法がない。それってよくない、となんとなく思う。なんでよくないのか。

仮に「正しい道」というものがあるとしたら──と考えてみてほしい。「正しい道」というのは、考えられる選択肢の中で、一番人々の生活に溶け込み、無理のない歩き方ができる道、という意味で。

最初から「これが正解」という道を作るのは難しいだろう。実際に人々が歩いてみて、その足跡の一番多いルートが道になるべきだ。人がそこを歩くからには、きっと何か理由があるから。たまたまそこが夜でも光の届く場所で安心感があるとか、あるいは日中、日陰を求めて歩いたら自然とそういうルートになる、とか。それなりの合理性があって、道は道になる。

だから、もし道としてあまり機能していない場所があったら、そこは歩いて通過する場所としてふさわしくないのかもしれない。「かもしれない」というか、多くの人が無意識にそう判断した結果、道になれない空間なのだ、そこは。だから、そこに道路があるのに人があまり歩いていない場所は、たぶん道として何かが足りていない。どこかに危ない死角が存在するのかもしれないし、単にそこを歩く理由がないのかもしれない。なんにせよ「ここを歩く人は少ないですよ」と見分ける指標──人の足跡に代わる何か──があればいいのに、と思う。

道を覆うコンクリートは、確かに私たちの生活を円滑にしてくれた。雨の日でも水を吸ってくれるし、平らだからつまづくこともない。舗装された道路は、人々の生活を安全で快適なものにした。でも同時に、人の痕跡を消してしまった。そんなことを考える。

建築家の隈研吾は「20世紀はコンクリートの時代だった」と言っている。彼はそこからの脱却を図って、その土地の自然物を駆使した建築を展開しているけど、道路がコンクリートであることに疑問を呈する人はいない。まあ、そうだろうな。いまのところこれがベストなんだろう。

だけど、もし近未来に行けたとして、相変わらずコンクリートの道路が街を覆っていたら、自分はちょっとがっかりする。なにかもっと、水を吸って舗装もできて、でも人の痕跡が残る道って作れないんだろうか、そんなことを夢想する。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。