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見えない存在の話をするのは

梨木香歩を読んでいる。『 家守奇譚 いえもりきたん』、なんとなく夏目漱石を思わせる文章で、雑な感想を言うと「めっちゃ好き」。

この人の作品は、小学生の頃の『西の魔女が死んだ』が初読だった。それはやがて映画になって、それが映像作品への初出演だという洋風のおばあちゃんをスクリーンで見た。当時の映画館はもうない。最後にお母さん役の人が、亡くなった人を前に「ウチではこんなもの掛けないのよ」と顔の白い布を剥ぎ取る場面をよく覚えている。

もっとも記憶なんて曖昧なので「その映画にそんなシーンないですよ」と言われたらあっさり引き下がる。それから梨木香歩の作品は読んだり読まなかったりして、いつも穏やかな不思議な話を書く人だなあという印象があった。特に女の人たちがたくさん出てきて、大げさな事件は起きないけれど、日常がさざめいたり揺らいだりしながら、一歩一歩確かに前に進む。そういうイメージ。

この『家守奇譚』は珍しく男性が主人公で、会話の妙と古めかしい文体に漱石を感じる。作品の中に、夏目漱石の著作のタイトルである「二百十日」「野分」という言葉がはっきりと出てくるから、作者も意識しているのかもしれない。そのあたりの分析は文学者に任せる。個人的には「かなりそれっぽい」としか言えない。

漱石の二つの作品と違うのは、不可解な現象が当たり前に描かれているところだろうか。木が恋をする。掛け軸の絵の中から人が出てくる。タヌキもキツネも河童も、しごく当然といったように現れる。その自然さがいい。妖怪ですか、そうですか、そういうこともあるでしょうね……死んだ人がふと戻ってくるのなんて、珍しくもないですよ。そんな空気感が伝わってくる。

妖怪とか妖精とか「見えないもの」の話は文明社会においてお呼びじゃない。だから隅に追いやられている。そういう話をするのも少し、はばかられる。むかし民俗学の先生がこんなことを言っていた。フィールドワークで土地の民話を採集して歩くとき、その土地の人々にいろんなことを尋ねる。「オシラサマとか知りませんか、座敷わらしを見たことはないですか」。十中八九、人々はかぶりを振る。そんなものは知らない、見たこともない、と。でも一人が話し始めると、次第に別の人も話してくれるようになる。実は私も、実は俺も。そうして語り始める。キツネに化かされたことがある、小さい頃に不思議なものを見た、そんな話の数々を。

「そういう話」はなぜか表に出ないもの、語るべきでないものとして扱われる。それが不思議だ。そこまで抑圧しなくたっていいのに、と思う。どうしてこんなに隠されるんだろう。それを語ると頭の横でクルクルと指を回されるような、そういう風潮があるんだろう。罪のない害のないただの物語だったら、おおっぴらに語ったっていいじゃないか?ああいう話を単なる愉快な作り話として片付けることができないのは、どうしてだろう。

民俗学の先生は言った。「僕は幽霊がいるかいないかなんてどうでもいい、ただそれを見る人がいることは信じます」。幽霊とか妖怪とか妖精とかそういうものは、ひょっとしたらそれを見た人について、多くのことを語るのかもしれない。何かに迷っているときに狸に化かされやすいとか、誰かについて思い詰めているときに座敷わらしを見るものだ、とか。わからないけど。でもこれほど多くの人が「隠したい、言いたくない」と思うのは、やっぱりそれがどこか自分について何かを暴いてしまうものだから、それができたら見たくない自分の影だったり、暴かれたくない何かだったりするから……。そんな風に考えると、辻褄は合う、ような気がする。

なんにしろ『家守奇譚』はよい作品です。

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