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初めての生きものと会ったら

 ふだん忘れがちだけど、人間は自然界を生きる生物のひとつなのだ。だから日常生活の結構な部分を、本能の判断にしたがって生きる。
 
 「本能」というと、睡眠欲とか性欲とかを思い浮かべる。でもいま言いたいのはそうじゃなくて、もっと根源的なやつだ。だれかやなにかに遭遇して、真っ先に思うことはなんだろう?そのレベルの本能。
 
 なにかに出会ったとき、生きものにとって一番必要な情報はなにか。答えは簡単だ。「敵か味方か」。それだけ。自分に危害を加えてくるか否か?真っ先に知りたいのはこれで、他はあとからで構わない。
 
 きっと私たちも誰かと会うとき、本能レベルでの判断を働かせている。この人は感じがよさそうだ、警戒心を解いてもいい。この人は危うい匂いがする、油断してはいけない。どこかでそんな風に思っている。
 
 判断を下すのは、いままで出会った人たちの記憶の蓄積だろう。昔この手の人に痛い思いをさせられた……という記憶があれば、初対面の相手であっても身構えてしまう。逆に、このタイプに悪い人はいないと思っていれば、なにも知らない人でも警戒心がゆるむ。
 
 最初に下される判断の多くは当たる。本能×記憶がみちびき出した答えは、たいていまちがいない。中には少数、初対面のときの印象を覆す人はいる。でも多くない。
 
 だから人が「なんとなく」下す判断を信じている。いま読んでいる本にそういう話が出てきたから、共感しているところ。著者は精神科医で神経学者で、「意識」に関わるいろんな実験の話が出てくる。
 
 その中に「グッド・ガイ/バッド・ガイ実験」がある。対象になった患者はデイヴィッドと言う。脳の一部に損傷があり、新しいことをなにも覚えられない。新しく人に会っても、名前も顔も、どこで会ってなにを話したか覚えていられない。
 
 著者はデイヴィッドに、3タイプの人と関わってもらった。ひとつ目がグッド・ガイ。愛想がよくていつも何かをくれる。とても愛想がいい。ふたつ目は、不快でも愉快でもない人。このタイプはニュートラル・ガイと呼ばれる。
 
 最後にバッド・ガイがいる。常にぶっきらぼうで、デイヴィッドがなにを頼んでも「ノー」と言う。そして飽き飽きするような退屈な作業に関わらせる。デイヴィッドは、一週間にわたってこの3タイプの人と交流した。
 
 すべてが終わったあと、著者は3人が写っている写真をいろいろ見せた。そして聞く。
「助けが必要なときに、誰のところに行きますか?」
「この人たちの中で、友達は誰だと思う?」
 デイヴィッドは、交流のことはなにも覚えていない。はずだった。
 
 でも彼は80%の確率でグッド・ガイを指した。ニュートラル・ガイを選ぶ確率はほぼランダム、そしてバッド・ガイはほとんど選ばない。デイヴィッドに、3人との間になにがあったか聞いてもなにも思い出せなかった。それでも選ばれるのはグッド・ガイであり、バッド・ガイではないのだった。
 
 もちろん、この実験を疑ってかかることはできる。「愛想のいい人」に選ばれたのは、すごく美人だったんじゃないの。「付き合いの悪いタイプ」を演じたのは、見るからにヤな感じの人だったとか。
 
 著者もそれはわかっている。実験では、バッド・ガイに若く美しい女性が採用されていた。本来デイヴィッドは、そういう人を好むはずだった。でも結果そうはならなかった。感じの悪さは、他の魅力を吹き飛ばしてしまう。
 
 相手は敵か、味方か?これをジャッジするのは、どうやら意識にのぼらない部分らしい。人間、自覚がないままいろんな判断をしているんだろうな、と思う。で「敵」と思った人には意識しないまま冷たく接していたり、理由なく存在を忘れたりする。
 
 ときどきビジネス書で「第一印象をよくするには」って項目があるけど、理屈は簡単だ。「敵じゃない」とだけ伝わればいい。服の色がどうとか小手先の策を弄さなくても、本質だけわかれば十分だ。私は敵じゃない。初対面で必要なのはきっとそれだけ。


実験の話はこちらから。
アントニオ・ダマシオ『意識と自己』田中三彦訳、講談社、61~67頁。


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