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算数の思い出

数に終わりはない。それをはっきり知った瞬間のことは、いまでも思い出せる。

数学者のピーター・フランクルによる、子ども向けの算数コンテンツだった。タイトルは『マテマティカ』、子どもたちとフランクル先生が算数の世界を旅する仕立てである。

その中で「無限」を説明する回があった。数はどこまで行っても数えきれないこと、大人にとっては常識だけれど、子どもはイマイチ理解していないような概念。この回では生徒役の子どもたちが「一番大きい数って何?」と訊かれて「一億!」と無邪気に答える。そこにピーター・フランクルが登場する。

「ここが9千9百99万9999、それでここが1億。なら次は……?1億1」
言いながら、数が描かれたCGの階段を登る。どこまでいっても、一の位は0~9までを繰り返し、数は増え続け、その果てはありえない。そう一通り説明したあと、訛りのある独特のイントネーションで彼は続ける。
「数に、終わりはないんだ」

フランクル先生のおかげかどうか、その後、小学校の算数で苦しめられることはなかった。とりわけ数学好きにはならなかったものの、あれはかなり良質なコンテンツだったと思う。他に覚えているのは「単位」の回で、人々がどうやって物の長さを測る単位を発明してきたか、そんなのもわかりやすく解説されていた。ピーター・フランクルは偉大。

これを書くついでに名前を検索してみたら、前よりナチュラルな日本語を駆使し、やや図太くなった感のあるフランクル先生の動画が出てきた。そうか、大道芸もできるんだっけ、この方……。

時々、その訛りある台詞を思い出す。数に終わりはないんだ。ということは、どこまでも数えられるものはなんであれ終わりがない。時間とか、宇宙空間の体積とか、なんでもいいけど。正確には終わりという概念がない、始まりも終わりも想定できないようなものがそこにあるのかもしれない。

たまに算数・数学が本当に苦手な人がいて「1+1からしてわからない、1はいくら足しても1に他ならない」と嘆く子も、算数の文章題を読んで「なんで兄貴のほうが先に自転車で家を出るんだ、弟を待ってやれ」と突っ込んでいる人もいる。逆に自分はなぜ、それをスルーして算数を理解できたんだろう。1は確かに足しても1だ。なぜ兄弟は時間差で家を出るのだろう。説明しろと言われてもできない。

数学の世界は論理的に見えて、かなりの部分を割り切っている。例えば「本物の線分」は面積を持たないことになっている。でも紙の上に線を引けば、それはどうしたって幅を持つ。そこは目をつむって話を進める。じゃないと進まないから。

だから数学ほど「それは『そういうもの』」という理不尽(?)を呑み込まないとできないものはない。目に見えるものはなんだって果てがあるじゃないか、無限は目に見えないと言ってみたところで「数に終わりはないんだ」、そういうものなんだと言い切られてしまう。あの言い切りのシンプルさ。

算数が教えてくれたものは、むしろそういう理不尽だったように思う。論理的思考とか計算能力とかそういうものじゃなく。1に1を足したら2になるのであり、そこに疑問を覚えなくてよろしい。たかしくんがリンゴを買ったあとのお釣りの額なんて、実際に買えばわかる。しかしそう回答してはならない。物事には文脈があり、望まれる回答はひとつである。そう教えてくれる教科だった。

数学好きな同級生たちは「国語と違って解答が一個だから割り切れていていい」と言い、私は「国語の解答だって一緒。10分の1って書くか、0.1って答えるかの違いだけ」と反論し「わかるけど喩えがウザい」と言われていた。算数・数学というと、そんな記憶がふっと出る。

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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。