ロボットも悪くない

まともで平凡で普通であり、日常を営む能力があるのは、いつも素晴らしいことだと思っている。どこかでも書いたけれど、日々の暮らしを維持することは、誰にとってもすごく簡単というわけじゃない。「友人関係を保ち、心身ともに健康で、趣味に使える時間を持ち、家族と良好な関係を築き、職を失わないように努力する。それは誰にとっても、簡単なことじゃない」。誰かが言っていた。その通りだ。

「まともで平凡で普通」が何なのか、教えてくれる人はどこにもいない。義務教育で教わるのは、五教科+αであって「まとも」「常識」という教科はない。どんな話し方が「普通」なのか、冠婚葬祭の際の正しい立ち居振る舞いはどうか、なんてことは教えてくれない。

まして、もっと細かなことプライベートな会話になると誰も正解を知らない。どこまで踏み込むのが「常識的」で、どこからが「非常識」なのか。「そこらへんは個人差だから、個々人でなんとかして」と言われている。だけど、そこを上手に「なんとか」できてなんの火傷も負わない人は、既に常識がある人だ。距離感を詰め過ぎて社会生活を失う人もいれば、距離の詰め方を知らず、誰にも近づけない人もいる。

常識は学ぶものだ。「普通」になるために、学ばなければならない。そういう強烈な感覚が、自分の中にはずっとある。だから「こういう時はこうするものよ」と教えてくれたすべての人に感謝しているし、彼らが自分の人生にいなかったら、と思うとゾッとする。それがどんなに些細なものでも、やっぱり教えてくれてよかったと思う。例えば、お店で何かサービスを受けたら「ありがとうございます」と言うこと。

当たり前のことに見えるけれど、だからこそできない人への視線は辛いものになる。コンビニのレジで店員に、レストランで料理を持って来たウェイターに、落とし物を見つけてくれた駅員に。ああいうとき、お礼の言葉を言うものだと教わってなかったら、自分はどうしただろう。とにかく何かお礼を言わなきゃと、ぎこちなく「どうも」とか言うんだろうか。見ていると、黙って会釈する人もいれば、そこに何も起きてなかったかのように無視する人もいる。

何かしてもらって「ありがとう」と言う。それは時々、とても機械的な動きだ。注文した料理がテーブルに置かれる。「ありがとうございます」。テイクアウトのカフェラテです。「ありがとうございます」。お忘れ物の傘こちらです。「ありがとうございます」。何も考えなくても、それが口から出てくることで、自分がどれだけ救われたか、と思う。どんなにロボットのようであれ、この10文字を発するほうがずっといい。なんて言ったらいいかわからずにオタオタするより、遥かに。

「ロボット」と書いたけれど、悪い意味だとは思ってない。あらかじめ予習した動きを機械のように繰り出せることは、いつも自分を救ってくれる。なんて言ったらよいかわからず途方に暮れる、気まずい瞬間を遠ざけ、「まともな人間」の称号をくれる。だから、使い勝手のいい陳腐な台詞は、たくさん覚えたくなる。「恐れ入ります」とか「なんと申し上げてよいやら」とか「光栄です」とか。使えそうな時はパッと出てくるように。

そんなことをわざわざ書くのは、いわゆる「常識的な反応」ができずに悩んだ時期があるからだ。「死にたい」と言う子になんて返事をしようか考えて「性格のいい○○ちゃんなら天国に行けるよ」と言ってしまった時とか。あるいは「私ブスだから」と言われて、大真面目に「どう見ても普通だよ」と返事をした時とか…………。いまなら「そんなことないよ」と言える。常識がインストールされたまともなロボットみたいに。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。