無駄がなくて辛い

不要不急のものに精神の安定を支えられていたことを、いまさら悟っている。生活用品には不自由しないし、感染拡大が思ったよりも抑えられているから「それだけでも、前線に出て働いている人に感謝しないと」と思っていたのだが、いかんせん続くと辛い。何が辛いと言って、無駄なものを何も許容しない世界が辛い。

廊下に立って無駄話をすることができない。すべてオンラインに移行しているから。「一緒に帰ろう」と帰り道でだべることもできない。そもそも外出しないのだから、帰り道もない。何かで余ったお菓子を持って帰ることも、ふらっとどこかのお店に寄ることも、知らない本と会うのを楽しみに本屋を延々と歩きまわることもない。

非常事態宣言が出たあたりで、それはわかっていた。わかっていたけれど、それがどれくらい自分にとって大きなことなのかは、身に起きてみるまで理解できない。まあちょっと生活が単調にはなるだろうけど、家族とは電話できるし、知人とも連絡は取れるし、そもそも大人数で群れる世界には生きていなかったから、自粛が多少続いても平気だろう……くらいの気持ちだったけれど、考えが甘かった。

だから「どうやって無駄なものを安全に取り戻すか」という、日頃まったく考えないようなことを考えている。お店が閉まっている以上、そこに期待はできないし、パソコンの前に貼り付いているのも性に合わないし──。そういう理由で、このところ不要不急の散歩にばかり出ている。一人で歩く分にはソーシャルディスタンスも何もないし、外を歩くのだから密閉空間とは程遠い。

だけど、個人でできるのはその程度だ。どんなに画面の中で芸能人が歌っていても、家にいようと呼びかけている人がいても、いつもそれを見るために画面に貼り付くわけにもいかない。いや、それが耐えられる人はいいけれど、自分はどういうタイプではなくて。アナログな本を好んで買い、外に出て人と話す(と言っても、大抵一対一みたいな少人数で)のが好きだった人間には、平気といえるほど平気じゃない。

結局これは、自分に引きこもりの才能がなかったということになるのかもしれない。一日中、家に居て辛くならないのはひとつの才能だ。反対に外向的かというとそうでもない。自粛に耐えられず遊びに出歩くほど、吹っ切れた性格じゃない。せめて初夏の景色を撮りに出たいと思いつつ家にこもっていたけれど、これはもう行ったほうがいいな。内向きにも外向きにも振り切れない性格のまま、どうにか落としどころを探している最中だ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。