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誰も言葉の主人にはなれない

英語の「express(エクスプレス、表現する)」の語源を知ったとき、なんだかすごく新鮮だったのを時折おもい出す。

「ex(エクス)」は、「exit(エグジット、出口)」「except(エクセプト、~を除く)」なんかの単語に見られるように「~の外にある、外に出る」が原義。「press(プレス、押す)」は日本語でも「プレスする」と使われるように、ギュっと押したり刻印したりする、あの感じ。だから「エクスプレス」は「頭の中にしかないものを、現実世界に押し出して刻印する」というニュアンスになる。

日本語だと「あらわす=あらわにする」という語感が強いので、「表現」という行為をそんな風に捉えたことはなかった。和語だと「今まで隠れていたものを明るみに出す」行為に聞こえるのだけれど、それが英語にスライドすると「グイっと押し出す」、なかなか強めな言葉になるんだなあ、と思う。

どっちの語感が正しいとか、間違っているとかはない。ただ「エクスプレス」の持つ暴力性みたいなもの、文字通り押しの強い感じはすごく生々しくて、言語の差異を実感した。

ここで少しだけ英単語の話をすると、「ex(エクス)」は、英語にもフランス語にも頻繁に登場する。「excuse(エクスキューズ)」と言えば、「責任(cuse、キューズ)の外に出る=免責する」という意味になるし、「exile(エグザイル)」は「外への(ex)放浪(ile)=追放、流刑」を表す。

エクスプレスが「表現する」なら、その逆はインプレス(impress)である。今度は押される側になるわけで、内側を意味する「in」に「press」がついて「内側に押される=印象を持つ、感銘を受ける」というニュアンスになる。「be impressed with~」は、受験英語で覚えさせられた人も多いだろう。訳はだいたい「感動する」とか、そんな感じ。

言葉っていうのは、単なるコミュニケーションの道具には終わらない。英語で話す人は、英語の持つ思考回路、英語圏が背負ってきたものの見方に支配されているのであって、そういう意味では言語の下僕に過ぎない。それは日本語でも何語であっても同じことで、人は誰でも言葉に振り回されながら思考し、読み書き、話す。誰もその主人にはなれない。外国語を勉強しているとそんなことを思う。

よく考えたら、ある言語の寿命なんていうのは、人や国家の寿命よりも遥かに長いわけだ。もちろん言葉の移り変わりはあるだろうし、日本語なんてその変遷の激しい言語ではあるけど、それでも何千年と生き延びている。言葉は長生きだ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。