今日だけはわからない

夕暮れの街を歩いていて、誰でもなくなってしまう瞬間が好きだ。自分が街に溶けて、誰かの娘でも友人でも買い物客でもなんでもなくなってしまう、その時間が一番愛おしい。

今日はそんな日だった。夕方に外に出たら、暑さのピークは過ぎていて湿度も程よく、穏やかな風が吹いていて、それが記憶の中の七月とぴったり重なったから、ああ七月だと思う。暑いのは嫌いなのに、夏は嫌いになれない。

スマホを置いたまま外に出て、気分がいいからずっと歩いていると、だんだん街の空気に溶け込んでいくような気がする。「わたし」というものが周囲に溶けだしてしまって、そうすると自分がいなくなって、自分がいなくなってしまうから、抱えている心配事も考え事も、明日の予定も、自分が誰かにとって子どもだったり先輩だったり常連客だったりすることも全部どうでもよくなってしまう。誰かから連絡が来ることもないから、日常に引き戻されることもなく、小一時間そうして歩いて帰ってきた。これだから散歩は好きだ。

部屋に帰って、正気に(?)戻った頭で考える。ああいうのを言語化すると「一体感」という言葉になるのかもしれない。街との一体感。あるいは、そこに住んでいる人々と一緒に生きている感覚。自分が限りなく匿名の存在になり透明化されていって、何も背負うものがなくなって軽くなる。

他の人はいつこれを感じるんだろう。例えば音楽が好きな人が、音楽が好きな人同士でライヴに集まるときの気持ちは、よく「一体感」と表される。音楽フェスには行ったことがないからわからないけど、あの人たちがあの場所で感じているのも、こういう気持ちなんだろうか。それとも、多くの人は生きていて恍惚とするレベルの一体感を持つことがそもそもないのだろうか。よくわからない。自分が初めてこの感覚に陥ったのは20歳を超えてからだったと思うし、その体験がなければ、一生そんな体感とは無縁だったかもしれない。最初のときは、九月で夏の終わりだった。やっぱり一人で外に出た、何者でもない夕暮れが、溶けそうなほど心地よかった。

誰でもない、何者でもない。こういう表現は多くの場合、ネガティブな文脈で使われる。まだ何も達成していない人の焦り、生き甲斐を失った空虚感の表現みたいに言われている。でも、自分には全然そんな風には感じられない。誰でもないことの軽さがどんなに心地いいか、何者でもない瞬間がどんなに恍惚としているか。それを知った身としては、安易にネガティブな同意はできない。そんな日だったから、今日だけは「何者でもない」を嘆く人の気持ちがまったくわからない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。