「いい本」とは

ふと思い出して読みたくなるような本が「よい本」なのだと思ってる。唐突にその小説の一節が蘇って、ああ、あの物語のあの部分をまた読みたい……と本棚を探す。そういう行動を起こさせる力が宿っている。

昨日は唐突に、そして久しぶりに『ぼくは勉強ができない』を読みたくなって、大学の図書館で探した。本当は本棚にあったはずだけれど、発掘できなかったから売ったのかもしれない。表紙違いで2冊持っていたはずなんだけど……。そんなことを考えながら、図書館で1人、本を読む。

読みたかったのは「賢者の皮むき」と題された章の一部分で、「私は人に好かれる自分てのが好みなのよ」と言い切る女の子が出てくる場面だった。彼女は学園のアイドル的存在で、主人公の男子高校生に告白するものの、「僕は人に好かれようとしている人を見ると困っちゃうんだ」と断られてしまう。主人公は言う。自分のことをよく見られたいと思って、他人の好みに自分を合わせる人は苦手なんだ、と。

それに対する女の子が返しが、上の台詞。私は人に好かれる自分てのが好みなのよ。

なんだかすごく割り切っていて、いいな強いなと思う。「できたら他人からよく見られたい」という願望は多くの人が持っていても「人に好かれる自分てのが好み」と言い切れる人はまりいない。他人に媚びているのに、媚びていることに気づかれたくはない。そういう後ろ暗さをバッサリ、切り捨てている。

最初にこの作品を読んだときは、このシーンのよさは正直よくわからなかった。その頃の自分が素朴過ぎて、誰かに好かれるために何かを演じるとか、他人の好みに合わせるとかいうことが、よく理解できていなかったせいかもしれない。だけど、ほんのちょっと大人になった今なら、この場面がどんなに面白いかわかる。

人は誰でも、自分という人形を背後から操っているようなところがあって、私が見ているあなたは「あなたという人」であると同時に「あなたが作って演じているあなた」でもある。私も同じように、ある程度は「人からこういう風に見られたい」と思って自分を作っていく。そういう「他人の視線と自分の視線」が交錯している場面で、これを書いた山田詠美はやっぱりビッグネームなんだろう。

「いい作品」っていうのは、その場で真価がわかるようなものじゃなくて、何年も、あるいは何十年も経ってから、思い出し、また読みたくなるようなもののことを言うんだろう。道徳的に認められている、いわゆる「よい本」ではなく、自分が生きてきた時間の中でその価値を熟成させるような。だから、文化の世界ではいつでも成果を焦ってはいけないし、とても長いスパンで作品と付き合っていく必要がある。まるで永遠に生きるみたいに。

「いい本」の定義について、今日はそんなことを考えた。


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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。