「ない」自己紹介

あらゆる物事は差異から成り立っている。あなたは私じゃないし、私はあなたじゃない。カラスはスズメではないし、蜜蜂は花ではない。そんな風に「否定」から何かを語ることはできる。あれでもないし、これでもないというように。

例えば自己紹介をするときに「私はこういう人間ではありません」と言うのはどうだろうか。それはかなり変わったやり方であることに間違いはないけれど、でも少なくとも2つのことがわかる。ひとつには、その人は否定しているものの存在を知っているということ。「私はカラスではない」と言うときには、カラスの存在をそもそも知っている必要があるから。そしてもうひとつが、その人は否定されたそれではない、という単純な事実である。

だから「よく○○って言われるんですよ~」という自己開示の仕方があるなら「○○とは言われないんですよ」という言い方があってもいいだろう。言い出した以上は、自分がやってみる。

例えば「この文章は、本当にあなたが書いたんですか」とは言われたことがない。大学で論文を出すときも、他のところで文章を見せるときも。中には、代筆や盗用を疑われてそう訊かれる人もいるけれど、自分はこれだけは言われたことがない。それだけ書いた文章と自分とが近いのだと思う、よくも悪くも。自分を偽ることができず、「書いたものの中でだけ存在する自分」を作るには向いてない。

つまり、そういうこと。「言われたことがない」から見えてくるもの。

他に「個性的ですね」もない。性格にも行動にも、奇抜さがないのかもしれない。考えてみれば、服装は(褒めてもらえる時はあるにしても)常識の範囲に納まっているし、尖った活動で耳目を集めているわけでもない。

誰かが言われていた台詞で、自分は言われたことがないものをもっと列挙すれば──「命を賭けて守るから付き合ってください」「もっと大人になれ」「一発やらせて」「死にたきゃ死ねば」「お前は皆の太陽」「線が細い」……。どれもない。

もちろん「ない」を並べていても、わかることはそれほどない。「これはカラスでもないし、机でもない……」と否定を並べるより、「これはペンです」と肯定形で言い切ったら話は早いに決まっている。だけど、外堀を埋めて本丸に近づくように、「ない」から何かに迫っていくのは、時として悪いやり方じゃない。「消極的」を説明するときに「積極的の反対」と言えば、とてもわかりやすいみたいに。

それはだから、全ての物事は「~ではない」という形で、他のすべてのものを際立たたせ、存在させているということでもあって……。私はあなたではないことで、あなたをあなたにしているし、あなたは彼ではないことで、彼を彼にしているわけで……。

そう考えると、人は文字通り「いるだけでいい」のかもしれない。今日は「ない」について、そんなことを考えた。

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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。