正しいと叫びたくても

誰かを正しさで裁こうとしている時点で、相手のことを好きじゃないんだ。そんなことを考えている。

「正しいっていうのはね、人気がないんだよ。正しいことばかり言う人間が煙たがられるのはしょうがないんだ」という話を聞いて「公のことは正しくないと困るんだけど、私的なことにまで『正しいか正しくないか』を持ち込んでくる人って、確かにキツいな」と感じた。

プライベートな領域では「好きか、嫌いか」「許せるか、許せないか」が問題になるのであって、そこにパブリックな価値観を持ち込んで「第三者の目から見て正しいか?」とやるのは無粋じゃないか……。

少なくとも、自分の家族や大切な人に対して、理詰めで「あなたは論理的にこれこれの理由で間違っている」と糾弾するシーンは思い浮かばない。逆に、少し距離があるはずの人から「私たちは親しいんだから、これくらい許してよ!」と理不尽な要求をされたときには理詰めで反論する。相手を私的空間から公的空間に引きずり出して「自分のやっていることを第三者の前で弁解できますか」と言いたくなるのだ。

だから冒頭に戻って、正しさで誰かを裁きたくなるときは、プライベートな空間を離れて、信頼関係が築けていない他者と向かい合ったとき、なのだと思う。

「正しい」という基準が「他者」(雑に言うとあんまり仲良くない人たち)に適用されるものであることを思えば、私的な場所で「正しい/正しくない」にこだわる人は「あなたは私にとってまったくの他人」と言っているようなものなんだろう。

あるいは、自分の感覚に自信がない人が、私的な場所でも過度に「正しさ」にこだわるのかもしれない。正しさ以外の基準を持っていない人。「自分がそれを好きか嫌いか」をあまり考えたことがなくて、何かというと「正しいかどうか?」と考える傾向にある人。それって、誰のことも何のことも好きじゃないって言ってるように見える。息が詰まる。

公的な基準を私的な領域に持ち込むのは、そういうわけでとてもリスキーだ。親しい人に「あなたのすることは正しくない!」と叫びたくなったら、ちょっと表現を変えて接したほうがいいかもしれない。たぶん、そのときの本音は「私を粗末に扱わないで」とか「そんなことされたら悲しい」だ。

だとしたら、正しさで裁くよりこっちの本音を伝えたほうがいい。そのほうが「お前は間違ってる」という叫びよりずっと気持ちが伝わる。伝わるし、きっとそのあとの関係もそんなに険悪にならない。

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