週末の韓国文学
本屋の韓国文学コーナーから二冊、取り出してレジに向かった。『私が望むことを私もわからないとき 見失った自分を探し出す人生の文章』と『あのこは美人』。お隣の国の事情は、いつもどこかで──よい意味でも悪い意味でも──目に入る。近いから仕方ない。
同級生の中には、韓国が大好きで留学したり、言葉が話せたりする子もいるけど自分は違う。知ってる単語は四つしかない。アニョハセヨ(こんにちは)、サランヘヨ(愛してる)、カムサムニダ(ありがとう)、ケンチャナヨ(気にしない)。
自分の知っている韓国は、映画や本の中の韓国だけだ。映画でかかれた半地下の家族、狭い場所に住み高い家賃を搾取される人々、容姿に対する激しいジャッジと整形への情熱。それから日本の人々より感情表現が豊かで、感じやすい人たち。
『私が望むことを私もわからないとき』
『私が望むことを私もわからないとき』の訳者あとがきにも、ちらっとそんな話が出てくる。例えば「ロマン」という言葉は、日韓で大きな温度差のある単語らしい。日本だとこれは「夢や冒険心をかきたてるもの(by旺文社国語辞典、第11版)」になる。
韓国では、初雪が降って感傷的になったり、寒空の下で息子を待った母に涙腺がゆるんだりするのも「ロマン」にくくられる。だいぶ語感が違う。情緒的なものはすべてロマン、ってことでいいんだろうか。わかるような、わからないような……。
一個理解できたのは、韓国の人々のほうがどうやら、個人的な事柄を情感たっぷりに受けとめる、ということだった。ときどき目に入るドラマを見ても、そんな感じはする。
本の内容に話を戻すと、文中にたくさんの小説やエッセーからの引用があって、一挙にいろいろ読んだ気になる。韓国の詩人や現代作家をよく知らないから、ああお隣の国にこんな作品があるんだと知るには十分だった。
孫引き(引用されているものを、原文にあたらずそのまま引用すること)になるけれど、次の文章はよかった。
ああ、わかる。友達がひとりもいないのは寂しいけれど、そういうことではなくて。薄っぺらい関係ならなくてもいい。ないほうがいい。気を遣って神経を擦り減らしても、何も得られるものがないから。
それくらいなら、たったひとりのわかりあえる友達や、身近な人、わかってくれる人、家族と一緒に過ごすほうがいい。あるいは自分のために過ごすほうが。
引用される作品は韓国のものばかりでなく、村上春樹や浅田次郎、夏目漱石が顔を出し、さらに他の国々のエッセイや小説にも触れられる。
たとえば家族を失うさみしさについて。誰かが亡くなったあとって、否応なしに現実的な手続きがついて回る。故人の衣服や持ち物、人から借りていたCD、本に辞典、メガネや思い出の品々を、捨てるかどうするか考えないといけない。
ずいぶん前に兄が死んだとき、形見にメガネをもらおうとした。でも兄が電車にはねられたときに着けていたために、使えないほどグシャグシャになっていた。代わりに欲しい物はなかったから、残された物は衣類からなにから、すべて遺品になった。
亡くなった人の持ち物は、手で触れられる幽霊のようだ。そう書いたのはポール・オースターだ。同じ英語圏のジョン・バージャーはこう書いている。
文に服を掛ける。荒唐無稽なその文章が、自分にもなんだかわかる気がした。
想像の中で、兄の眼鏡をかけてみる。壊れずに私の手に渡っていたら、どうなっていただろう。それをかけている間中、自分は常に「死」を意識したかもしれない。
どんなに人生が美しく幸福でもいつかは死ぬんだと、あたりまえのことをずっと考えながら生きたかもしれない。そうじゃないから、ときどき死を忘れていられる。
『あのこは美人』
韓国の、激しい美容競争を描いた小説……の側面もあるけれど、実際のところは女性たちのいろんな側面を描いた物語。言うことを聞かない職場の後輩や、それぞれの彼氏、貧富の格差、そんなものまで含めて。
情にあふれているのに、ヒリヒリして殺伐としている。小説の中の韓国からは、両極端な印象を受ける。みんな褒められた性格じゃないけど、大切なひとがいて大切にしたい感情があって、時には暴力を使ってでもみずからの身を守り抜く。
なんとなく「韓国」ってこういうところがある、と思う。灼けつくように救いがない。救いがないように見えて絶望だけはしてない。「ガッツ」とも「希望」とも違う何か。生への執着のような何か。
この小説を読んでいると、どこにも綺麗ごとがないなあと思う。外見がよければよいほど、それはいいこと。ここが完全に前提条件になっている。もちろん、お金持ちであるのも善。金持ちで美人なら、それはすべてを持っていて不幸になれないということ。
だから女性たちの美に傾ける情熱も、一切のためらいがない。整形手術を受けると言ったら、最悪失敗して死ぬ可能性があっても受ける。作品中には、遺言状を書いて美容整形する女性も出てくる。なんでそこまで、と思う。
もっとも整形手術を受けるのは韓国人女性に限った話ではないから、日本でもリスクを犯す人はたくさんいるだろう。この作品がいろんな国で読まれたのも、話の及ぶ範囲が韓国だけに限らないからだ。どこの国にも似たような事情がある。
お金持ちはお金持ちで空虚な暮らしをし、夜な夜なルームサロン(日本で言うキャバクラ)に出かけて行く。そこには憧れのアイドルも来て、彼もまた残酷さと無神経さを持ち合わせたひとりの人間だと証明していく。
貧しい人の不幸はお金があれば満たされるけど、お金持ちの不幸はお金で満たされることがない。その分、病も深い。名声や権力に入れ替えて考えてみても同じことだ。既に持っている人の不幸は救いがたい。
名声も富も権力も手にしたあと、人は何をすればいいんだろう?夜ごとに異性と遊びまわり、人を思うようにこき使えればそれで満足だろうか?その姿はまるで、食べても食べても飢えている餓鬼のように見える。
語り手の女性たちは、幸福とは言いがたいけれど不幸にも見えない。空虚な飢えを食いあさる他の登場人物よりも、ある点ではとても幸せなのかもしれない。何かあったら、必ず手を取って一緒に走ってくれる仲間がいる。
もともと英語で出版されたこの作品は、英語圏での「2020年の年間ベストブック」に選出されている。ニューヨーク・タイムズが載せた評はこんな感じだった。
「一見すると、経済格差と美容整形、厳しい美の基準についての小説のように思える。だが、読み進めると、この野心的な小説の核を成しているのはシスターフッドだと気づくだろう」
シスターフッド。女性同士の絆。
「絆で結ばれている」が、必ずしも美しいものじゃないのはみんな知っている。結ばれているとは結わえつけられていることであり、しがらみであり不自由でもある。でも一方で、どこかに飛んで行ってしまわないよう、自分を世界に繋ぎとめる命綱になる。
そういう小説。
本当は出版されたことをもっと前に知っていて、気になっていたけど手に取らなかった。SNSで思うほど評判になっていなかったのもある。noteのハッシュタグで検索をかけても一件しか出てこなくて、それだって出版社の記事だった。
でも結論から言えば読んでよかった。電車の中で読み進めて、気づいたら目的地だったから慌てて降りたりした。女の子たちが皆たくましくて同時に脆くて、すごくリアルで、他人事と思えなかったせいかもしれない。