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神様がいたとしても

東日本大震災のときのこと。「これは神の怒り」と書かれたTシャツを着た人がいたらしい。地球に優しくないライフスタイルの先進国だからか、あるいはその人の宗教に日本人が反しているからか、理由はよく知らない。それを見た人が「悪人だから災害に遭ったとでも?ばかばかしい。神がいちいち罰を下してくれるんだったらな、法律なんてもの世の中に必要ないんだ」と反論している記事を読んだ。

仏教の影響で日本にも「因果応報」の言葉はある。悪いことをすれば報いを受ける。なるほどそうかもしれない。とてもぼんやりしたレベルで言えば、自分も同意する。あまり性格のよくない人がうっすら周囲から見放されていたり、逆によく人助けをする人が愛されていたりするのを見て、そう思うことはある。ああ、やったことって我が身に返ってくるもんだなと。

それなら厳格なレベルでそれを信じられるか?何事も本人の身に返っていくのだから、法律もルールも罰則もなしで、平等な世の中が作れるのか?そう言われたら首を振る。

宗教はあくまで宗教であって、生活のすべてを託せるわけじゃない。熱心に仏教を信じている人なら「悪いことをされても、相手を法律で裁きたいとは思いません。それはした本人に必ず返るからです」と考えられるかもしれない。でも自分には無理だ。

ルールにのっとってきちんと裁かれてほしい。自分が加害者になったときも、同じ法律が適用されるだろう。それが「法の下の平等」ということであり、自然の下す因果応報を待つ余裕は持ち合わせてない。

だから痛い目に遭わされた人に対して「悪い人には悪いことが起こります。あなたの痛みはそれで埋め合わせされるから大丈夫よ。お天道様は必ず見ておられますからね」と諭す行為は、あまりいいと思わない。それは泣き寝入りを勧めているのと同じだし、法律やルールがなんのためにあるのかをよく理解していないように見える。

因果応報や神の怒りを信じるのはいい。だけど他人にそれを共有させて「あなたが痛い目に遭うのは過去の悪行のせいです」と本人を責めたり、あるいは「神様が罰してくれるから悪人を野放しにしてもよい」と捉えるのであれば、それは違う。

人は古来から宗教や神を信じる一方で、法も大事にした。ハンムラビ法典で「目には目を、歯には歯を」と言われるずっと前から、共同体を運営していくための罪と罰の天秤は存在した。どちらの歴史も同じくらい古い。

個人的には、自分一人で信じるのが宗教、他人と共にあるのが法律。そう考えているから、神を持ち出して他人を反省させようとしたり、因果応報を理由に泣き寝入りを勧めたりする行為には違和感がある。

善人だろうと悪人だろうと、雨が降ってくれば濡れる。どんなに心美しい人でも、痛い思いをするときはする。清く正しく生きていれば財布を盗られないわけじゃないし、極悪人がみな非業の死を遂げるわけでもない。

そういう理不尽があるとわかっているから、人は法律を整備したんじゃないだろうか。世の中が完璧に作られていないとわかっていればこそ、自分たちなりに不完全な天秤を作り、わずかでも理不尽を減らそうとしたんじゃないか。

神を信じるのも因果応報を掲げるのも自由だし、自分もぼんやり信じていることはある。仏教いうところの「ご縁」なるものは存在すると思っているし、すべてを人間がコントロールできると考えるほど、気合の入った無神論者じゃない。目に見えない何かは働いているだろう。でもそれは、人々を法律もルールもなしで納得させられるほど完璧には機能してない。

なんて話をすると「あんたは信仰心が薄い、頭で考え過ぎ」と言われることもある。そうかなあ、いつか信仰心が薄いせいで雨に降られるんだろうか。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。