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神聖かまってちゃんとメメント・モリ

 先日神聖かまってちゃんのライブを見に行きました。当方7年ほどこのバンドを追いかけてるのですが、神聖かまってちゃんのライブにはいつも「メメント・モリ」(=死を忘れるな)という思想が刻まれていると感じます。

 というのも、ボーカリストの「の子」のライブ中の発言には「今、この瞬間を生きている」「いつ死ぬか分からない」「このライブが終わったら自殺するやつがいるかもしれない」「死に損ないのお前ら、ここ(ライブ)=が一番の精神科だ」「精神を解放せよ」…と常に死を意識させられるからです。

 この発言の背景には、神聖かまってちゃんならではの「死に損ないの哲学」が反映されていると思います。の子は、過去にいじめられていたり、家庭環境が複雑だったりした背景を持っています。こうした様々な負の体験から双極性障害を発症し、情緒が不安定ゆえに自傷行為をしたり、「死にたい」と発言したり、自殺未遂をしたけど死ねなかったり…、と「生」と「死」の間でもがき苦しみ、どうしようもない生きづらさを感じていることがはっきりと伝わってきます。死ねなかった人間がどう生きるのか、どうやって死にたい気持ちと折り合いをつけるのか、制御できないバイオリズムに抗いながら一生懸命に悩み、の子なりのロックンロールをかき鳴らしているのではないでしょうか。
 それらに加え、ファンの中にはの子と同じく精神疾患を持っていたり、ODをしたり、リストカットをしたり…など繊細ゆえに深刻な悩みを持っている者が多くいます。その人たちの気持ちを代弁するかののように棘のある歌詞が叫ばれていたり、あるいはサンプリングを駆使して合法トリップ出来るような音楽性が絶大な支持を受けています。
 そして、そのような繊細なファンが多いため、過去には自殺する人もいました。(の子が未成年に悪影響を与えている議論についてはここでは話さないでおきます。)の子がこの事件をを重く受けてめて精神を掻き乱した時期もありました。私は、ただ「死」を受け止め、死んでしまったファンを忘れないことしかできませんでしたが、このような事件があったからこそ一層神聖かまってちゃんの「死」に対する意識は強くなったと思います。残された側、死ねなかった側はとにかくメメント・モリを感じることしか出来ないのです。

 しかし、反対に「死にたい」あるいは「死ねなかった」という死の衝動性が作品制作の原動力に繋がっていたり、それに救われてなんとか生きているファンがいることも事実です。ライブでは、の子とファンが共鳴し、ある種のリビドーが融和しています。この「死」に対して何もできない、どうしようもなさを発散できる場所でもあると思います。私は、年齢を重ねるごとにの子の言葉が突き刺さります。生きてる厚みのようなものが分かりました。また、ライブの最後の方に「15年ステージに立っているけど、俺は楽しいぞ」と言っていたことが印象的でした。生きていれば楽しいこともあるのかな…と少しだけ希望が持てたのです。

皆さんもぜひ、神聖かまってちゃんのライブで「メメント・モリ」を感じてみてください。最後に私がおすすめの曲を置いておきます。


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