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シンパシー、エンパシー、テレパシー

 共感という言葉は使うけれどもシンパシーって言葉はあまり使ったことがなかったです。

 厳密にはこの二つの言葉はイコールではないようだ。シンパシー(sympathy)には同情のニュアンスが強く含まれ、純粋な共感という意味ではエンパシー(empathy)のほうが適切であるのかもしれないです。

 シンパシーは使われ方としても、相手の状態がよくないときに用いたり、極端な例ではお悔やみの時に使われるということを今回調べて知りました。

 さて、僕自身の語感でいうならば、シンパシーは政治的な同調の言葉としてしばし使われることから、思想に対する同調がシンパシーであると勘違いをして――厳密には用例としてはあっていて思想への同調はシンパシーで正しいのであるが、ならば共鳴もシンパシーだろうと思っていたのだが、そちらはエンパシーが正しい。

 例えるならマキャベリズムに合致するのがエンパシー、博愛主義に同調するのがシンパシーとなるのだろうか。
 今後はそのことを念頭に置いてこれらの言葉を使い分けていかなければと思いつつも、なぜ共感という言葉を改めて調べてみようと思ったかといえば、それはいくつかの偶然(=シンクロニシティ)によるものでした。

第1の偶然 作詞
 僕は趣味で曲を作り、そこに歌詞をつける。音楽を作る工程には、曲が先にできてそこに歌詞を載せるというパターンと、先に歌いたいテーマや使いたい言葉があって歌詞が先で音楽を作るというパターン、そしてこの二つが同時――つまり両方のイメージが頭の中に浮かんで進行するパターンがあります。
 第1の偶然は、前者、つまり曲に歌詞をつけるという作業の中で起きました。

争いのシンパシー
ひび割れたシルエット
かみ合わぬギア
折れ曲がったトランプを積み重ねて作られた
虚構の女王が住む 星を掲げる塔の上
鳥のさえずりは雷鳴のように響き渡り
曇る空を激しく照らし続ける

 冒頭の『争いのシンパシー』というのは、本当に偶然頭に浮かんだ言葉で、それをきっかけにありそうでなさそうで、やっぱりあるんだなという言葉を紡ぐことでこの曲の歌詞は作られていくことになります。

 あまり意味を深く考えず、言葉遊びのようなものでしたが、これが最初の導きだったように思います。

第2の偶然 影響された映画10選
 FBで知り合いが影響を受けた映画10選というのをアップしていました。そのいくつかの作品は僕の共感するところとなり、僕は僕で、同じように影響された10選を毎日更新してみました。
 それがこちらです。

十二人の怒れる男
ヘルハウス
午後の曳航
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー
遊星からの物体X
ミスターグッドバーを探して
ブレードランナー
パーフェクト・ブルー
大脱走
スタンド・バイ・ミー

 いくつかの作品については、いいねやコメントをいただいて、つまりはそこで共感が生まれる、確認するという作業が行われるわけです。

 人は好きなもの、どう好きなのかが同じである人に共感を覚えるわけですが、同時に10あれば10一致するということもなかなかないので、それがいわゆる個性だとか、時代性だとか、差異になるわけですが、僕はこの手の共感、シンパシーをしばし『チャンネル』という言葉で表します。

 つまに他人と意思疎通をする際に、波長が合う、合わないという意味合いなのですが、チャンネルの種類――つまり周波数の帯域が広い人はいろんな人との繋がりを持ちやすいのだと思うのです。

 同じ映画が好き、影響されたといってもその映画の中のどのパートにシンパシーを感じたのか。そこが同じであればその人と僕とは共感しあえるという推移関係が成立します。
 ああ、やっぱりこの人も同じように感じていたんだというシンパシーはなんというか、うれしいものです。

第3の偶然 訃報
 知人の訃報にあたり、残された遺族の方の境遇が僕にとっては言葉をかける引き出しのない案件で困っていたのですが、その人はその人で同じ境遇の人たちの集まるコミュニティサイトを見つけて、悲しみをいたしていたということがありました。
 これもまたシンパシーで、同じ立場、境遇でしかわからないことは確かにあるのだと思います。そうしたコミュニティを今はネットで見つけることができるというのが、今の時代のいいところ。

 ところが時を同じくしてある芸能活動をされている方の訃報と同時に目にしたSNSの暗部、誹謗中傷という言葉に表せる匿名性の負のシンパシーについて心を痛め、同じツールでも人を癒すこともできれば、傷つけることもできるのだということを再確認し、自分がそのツールとどう向き合うべきなのか、そのような悪意に対して、どういう立場をとるべきなのかについて考えさせられました。

第4の偶然 改正案
 こちらもある法律の改正案について講義するということで、SNSでは大きな話題にたっていましたが、これもまたシンパシーなのです。ここで僕がどういう立場をとったかのかについては、本筋ではないので触れませんが、共感、シンパシーについて非常に興味深い事象で会ったかと思います。

第5の偶然 非常事態宣言
 現在進行形ではありますが、非常事態宣言のもと、不要不急の外出は控えるのようにするいわゆる『STAY HOME』についても、家族の一員として、会社の従業員として、不要不急ではない業界の人間として、なじみの飲食店、ライブハウスとの関わりについて、何に共感し、何に共感できないのかということを考えさせられました。

第6の偶然 曲作り
 音楽を通じて知り合った仲間のnote「太陽を射抜く」で紹介された楽曲を聞き、インスパイアされて出来上がった僕の曲を聴いてもらったときの感想「同じ太陽を見てくれているな」という言葉にひどく感激しました。
 一つの創作物から別の創作物がほかの人の手によって作られることは決して珍しいことではなく、僕自身もイラストを見てそこから小説を書くことがしばしばあります。
 しかし音楽はたぶんこれが初めてであったがゆえに、さすがに自信はなかったのですが、そう言っていただいて本当にうれしかった――これはシンパシーではなくエンパシーの分類であるようなのですが、これもまた貴重な共感体験でした。

 さて、こうした出来事が同時多発的に起きたということは、文脈的なたどり着くべき事象であったのかもしれませんが、そこに僕としては何か意味があるのではないかと考えたいのです。

 シンパシー、エンパシー、場合によってはテレパシーもあるかもしれませんが、それらがシンクロしていくとき、さてこの先にはいったい何があるのだろうか、何をすればいいのだろうかと考えるわけです。

 僕が心のメカニズムから量子力学にたどり着いたことと、無縁ではないように思うのは必然な気もしますし、場面場面でその話を誰かにすると、多くの人が似たような感想、実体験、実感を持っていらっしゃる。

 いずれこれらの因果律についてここでご紹介する日がくるかもしれませんが、今はまだ、手探り状態であり、きっかけをつかんだにすぎません。

 しかしどうやら、それを後押しするような流れが僕の周りに起きているのは間違いないようです。たとえたどり着いた先が、否定的なものであったとしても、或いは真理のようなものにたどり着くのだとしても、それはきっと、とてもとても、大したことではなく、日が昇り日が沈む現象が天動説なのか地動説なのか、どちらにしても、人の営みは変わらないのと同じレベルで、ただただ、好奇心を満たしたいだけなのかもしれません。

 でも、それを求めずにいられない僕は、すべての事象には何か意味があると思いたいのです。

 世の中、どうでもいいことなんて、そうそうないのですから。

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