人の話を聞くのが大好きな”めけ”と”ねる”が、あまり話を聞かずに好きなことをおしゃべりする、お手紙マガジン。
めけめけの徒然なるままにアンチテーゼ
なんとなく思いついたこと、思い至ったこと、思いにふけったことなどを つらつらと書きしるし、書きのこし、書きつけた何か
心を動かすことはできないかもしれないけれど、震えさせたり、揺れさせたりできるのなら、僕はそれをしよう
毎週日曜夜9時30分にツイキャスにて配信している『めけラヂオ』の配信後記。今年8年目を迎える長寿?番組です
生きていることは生々しい。 誰にも迷惑をかけず、清く正しく、美しく生きることなどできやしない。人知れず誰かを傷つけ、誰かに傷つけられ、誰かに思いを寄せ、誰かに裏切られ、心は常に揺れている。 人間は心の器。 どこか他の生物とは違っている。人を愛するのに言葉を必要とするし、言葉だけでは完結もしない。ただ肉欲のまま、本能のまま、あなたを求められるのなら、どれだけ清く正しく、美しく生きることができるだろうか。 器であるはずのこの身体は、どこまでも自由にはなれない。肉欲
そもそも論理的思考とはどういうことだろうか。 物事を理解する上では、まずその対義語を抽出する。 「非論理的」とは「感情的」や「直観的」といった言葉があり、英語なら「ロジカル(logical)」に対して「イントゥイティブ(Intuitive)や「エモーショナル(emotional)となる。これらの中間的カテゴリーは「経験則による直観」になるだろうか。 世の中に論理的思考が苦手な人や逆に直観を頼りに決断するのが苦手な人はいるが、論理的思考ができない人や直観がない人、感情的
ずっと以前より気になっていたアトリエシリーズをプレイしてみた。自分はPlaystationPlusなるゲームのサブスクサービスに加入しており、定額で結構なタイトルをプレイできる。もちろん最新作ではないものの、名作、少し前の話題作がかなりあるので結構なお得感があり、また、最新のゲームを追いかけるよりも、ある程度攻略方法が確立されたゲームを試行錯誤しながら楽しむのは、今の自分のライフスタイルにもあっている。 さて、このアトリエシリーズなるもの、コーエーテクモゲームスのガスト
ある年齢を過ぎたころから『いい人』と言われることに抵抗感があり、今となっては嫌悪感に近いものを感じてしまう。 たとえば人の魅力に『いい人度』があるとすれば、それは重要なパラメーターでないと僕は考えている。数多存在するスーパースターは『いい人』であるからスターでもそこがスーパーなわけでもない。 なろうと思えば人は誰でも『いい人』になれる。それはRPGでいうのなら絶対に何もなしえない人であり、登場人物としてはある意味必要悪のような存在で、悪を引き立てるための道具になり下
▼前回の手紙 ▼前回のまとめ 共通の知り合いでもあり、出会ったきっかけでもある山作戰のライブに行ってきました 山作戰(ヤマサクセンと読みます。ソロでは髙山真徳)については、なかなか所見の人には面白さが伝わらないかもしれないですが最近はバンドスタイルと弾き語りスタイルの両刀使いの音楽活動をしているアーチストです。彼と出会っていなかったら、いろいろと違った人生になっていたのは間違いないし、6月には同じステージに立たせていただきますので、その案内はまた別の時に。 過日、銀座
30代くらいのころって、知らないことは恥ずかしいとか、無知の罪なんてこともあるなぁって思っていた。 50代も半ばを過ぎると、知らないことが羨ましく感じるようになる。 もちろん、なんでも知っているわけでもなく、知らないことはたくさんあるのだけれども、知らなくとも大概のことは予測が可能になる。 どんなにおいしいものを食べても、食べる前からある程度予測ができるし、何かの延長線にその味はたいていある。 まったく食べたことのない味や触感にはなかなか出会えるものではない。
これまでの「【往復書簡】人のハナシ聞いてる?」は?(口調は海外連続ドラマ風で(笑い) 拝啓 ひまわりのきみ 桜前線は日向から日陰に移り、桜の幹にも緑が見受けられ、かの花は遅かろうと早かろうと、刹那的であり、それが人々を魅了するのでしょうね。 桜咲く 浮かれし人の あさましさ 酒におぼれて 泥船沈む 泥酔とはよく言ったもので、酒を飲みすぎて身を崩すさまはかくのごとしと歌ってみたものの、浮かれたく気分でいる人のほうがむしろ精神的には芳しく、おいしいものを「うまい」
拝啓 ひまわりのきみ あいにくの悪天候も桜を散らすことはできても、今日という記念すべき日を邪魔するに能わず。大変、有意義な時間を過ごせたことを何に感謝をすべきか。 それは晴れ男という損なのか得なのか測りずらい星の下に生を受けた我が運命にするよりも、ひまわりのきみなのだろうと思い感謝の意をここに述べておきたい。 以前よりひまわりのきみのエッセイ、テーマや切り口がということではなく、日常の目に届くところ、手に届くところに着眼して書き続けているというスタイルにすこぶる関心
”自分という存在がなければ、自分が観察しうる世界も存在しない” 僕の中ではある程度、セカイというのは自分の中にあり、思う通りのカタチをしているのだと思う。 冬の朝、冷たい空気に身を縮めながら低い太陽から光をもらうとそれでもだんだん元気になってくる。その時僕は世界は僕にやさしいと感じる。 一方で、セカイはとても残酷で奪われないはずの命が毎日どこかで失われている。その悲しみに僕はため息をついてしまう。 誰かが言った。 ”想像してごらん? 争いのない世界を”
忘れていた感覚を思い出させてくれたなぁというのが最初の感想でした。 映画『君たちはどう生きるか』が7月14日に公開されました。宮崎駿監督にの2013年公開『風立ちぬ』から10年ぶりの作品ということで、興行成績やまったく広告宣伝を行わないという宣伝方法が話題を呼び、公開後はちょっとしたお祭りになっているようです。 僕はできる限り情報をシャットアウトして吉野 源三郎 (著)『君たちはどう生きるか』 (岩波文庫)の概要だけ頭に入れて18日の最終上映を観に行ってきました。
作詞をしたり、小説やエッセイ的なものを書いたり、僕は常に言葉と向き合っている だから人の無意識は、言葉という形で現れることがあることを知っている 「知らない者は探さない」とはとあるアニメで使われている(原作コミックにあるかどうかは不明)セリフだけれどもこれはひとつの真理であり、心理だと思う そしてその逆も真 隠したいことを無意識で人は語ってしまう ちょっとした言葉の使い方や選び方の中に僕はそれを見出すことができる(もちろん気づかないことのほうが多い) しかし多くの
”あっ! いいこと思いつちゃった!” というときがあって、そんなとき人は絶頂感と疾走感でわくわくしている。それを言語化すると『ひらめき』ってことになるのだと思う。 逆に嫌な予感というのは良くも悪くも当たるもので、そんなときには絶望感まではいかないまでも、面白くもないし、停滞を余儀なくされるような……夢の中で怖いものに追いかけれられたり、或いは何かを追いかけようとしているのに追いつけないようなもどかしさを感じる。 そして日々の暮らしの中でそのような起伏は毎日のように
GWの一番のイベントというか、今年の最大のイベントは5月3日にガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3を観に行くことだった。たかがヒーロー映画、そしてその3作目になぜそこまで思い入れがあるかと言えば、それは単純に『乗り遅れたから』に他ならない。 2008年にアイアンマンが公開されそこからMCUはスタートした、それをさかのぼること6年前にソニーがスパイダーマンをヒットし、シリーズの人気はすごいものだった。 しかしながら1989年のバットマン、さらに1978
会話ができても対話ができない関係って、案外多いのではないだろうか。 人と話すことが好きと言い放つ人ほど、この傾向は高い。 そもそも会話と対話と何が違うのか。 乱暴に言えば会話は雑談、対話は談義の共有。 談義とは、物事の道理を説き聞かせること。 すなわち談義の共有とは、道理を相手に説き聞かせ、それについて議論を深めて、ある一定の結論とそれを実証するための課題を残すことであるのだと思う。 そしてそうした対話は会話から始まる。会話はボクシングで言うところのジャブ
3月18日に庵野監督のシン仮面ライダーが劇場公開され、31日には制作ドキュメンタリーがNHKで放送された。筆者はまだどちらも見ていない。 これから書くことはまだ見ていない筆者がそれらを見る前のメモのようなもので、もしかしたらどちらも見ないかもしれないが、庵野監督とはそれなりに長い付き合い(もちろんプライベートではない)でもあるし、映画コンテンツの楽しみ方という観点からいうと、現代においては見るまでが面白いという側面もあるのかもしれないことも踏まえて、いわゆる持論を展開し
自分の容姿についてここであまり語ったことはないのだけれども、簡単に言うと太った禿のおっさんです。 僕自身がそれについてコンプレックスを持っていないので、それを話題にすることもなかったのですが、それについてのエピソードがまるでないわけでもないので、いくつかお披露目しようと思います。 これについては、コンプレックスの克服とかそんな話ではなく、どちらかというと人との距離感という話になります。 行きつけのカラオケができる居酒屋があり、そこは仲のいい(もちろん喧嘩もよくする