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【心の解体新書】12.幽霊をモノマネすると人は怖がるのか~少年時代の落語編

心の解体新書】は筆者が一年後(2025年夏)までに『人はなぜ幽霊を怖がるのか、人はなぜモノマネを笑うのか』というお題に対して答えていくための思考メモです。そのために
・人はなぜ心を持つようになったのか
・心の機能――身体と心の関係と心の役割
・人はなぜ笑うのか
・人はなぜ怖がるのか
・心と感情と知識の相関図
・心は鍛えられるのか
・共通認識と普遍性
・心の言語化と会話の役割
・幽霊をモノマネすると人は怖がるのか
・心の解体――計算可能な心と不確定要素
といったテーマを今後掘り下げていきます(改変、追加削除あり)

 人はなぜ幽霊を怖がるのかと人はなぜモノマネを観て笑うのかを解き明かすことで、人の心のメカニズムを解体・分析し、心とは何かを解き明かそうというのが、このマガジンの趣旨だ。
 では、「人は幽霊のモノマネを怖がるのか、笑うのか」と問うてみてはどうかと思いつき、検証することにした。

 筆者がまず体験として思い出したのが、稲川淳二や落語家、噺家の怪談だ。体験としては笑うことなどできないくらい彼らの話は怖く、逆にその稲川淳二のモノマネはどうしようもなく笑ってしまう。俯瞰で観ると滑稽で笑ってしまうが、1次情報ソースはめちゃくちゃ怖いとはいかなることが人の心に起きているのだろうか。

 小学生の頃、どんな題目だったか覚えていないがこんな落語を聞いたことがる。

 その古寺に住職はいない。これまでいろいろな僧侶が寺に入ったがそこに現れるモノノ怪に悩まされ寺を出てしまうという。困り果てた村人のもとに一人の旅の僧侶が現れる。
「どれ、それでは私がその寺に行ってモノノ怪の悪さをやめさせよう」
 村人たちはその僧侶のみすぼらしく、頼りなさげな風貌にあまり期待はしていなかったが、僧侶が寺にいる間の食事と酒を用意することと、事態を収拾したらその寺の住職になることを約束した。
 寺はひどく荒れているものの、僧侶はそんなことを気にせずに食事をとるとすぐに境内に布団を敷いて寝てしまった。しばらくすると何やら物音がする。僧侶は寝たふりをしながら様子をうかがっていると、物音は大きくなり焦慮の寝ているすぐ隣の部屋から人ならざる者のうめき声がはっきりと聞こえるようになった。
「えらく、騒がしい、これは寂しくなくていい塩梅だ」
 僧侶は隣の部屋に聞こえるような大きな声でそういうと、また眠りだす。すると今度は天井を何かが歩く音が聞こえる。ペタ、ペタ、ペタペタペタ。音はどんどん騒がしくなる。
「誰ぞ天井に迷い込んだか。おかげでネズミを追い払える。いい塩梅だ」
 そういって僧侶はまた眠りだす。夜が明けるころには足音は止まっていた。
 次の日の昼過ぎ、村人たちが様子を見に来る。てっきり血相をかいて逃げ出したかと思ったが、僧侶は荒れた寺の掃除をしていた。
「出ませんでしたか」と村人が尋ねると、僧侶はニコニコと笑いながら、いい塩梅に騒いでくれたのでぐっすり眠れたと大きな声で笑い飛ばした。
 どうにも変わった坊さんもいるものだと思いながらも約束通り、今日の分の食べ物と酒を手渡した。
 その晩、僧侶が経を読んでいるとなにやら後ろに気配がする。僧侶はそのまま経を続けたが、その気配はどんどん近づいてきて僧侶の肩をポンとひとつ叩いてきた。それでも僧侶は気にせずに経を読み続ける。ポン、ポンと何者かが僧侶の肩を叩く。
「おお、これは関心、関心、昼間掃除をしたのでちょうど肩が凝っていたところだ。いい塩梅、いい塩梅」
 経を読み終えた僧侶はだれもいない背後の空間にお辞儀をすると、布団を敷いて眠り始めた。
 次の日は風もないのに僧侶の顔に何者かが息を吹きかける。すると僧侶は「いい塩梅の風が吹くものだ」といってすぐに眠り始めてしまった。
 また次の日は朝から雨が降りだした。村人たちは今度こそ僧侶が逃げ出したのではと話しながら寺を訪れると僧侶は雨の中、雨漏りする場所に桶を並べていた。村人は3日ももった坊さんは初めてだと感心し、持っていた傘を渡した。
 その晩には雨が止んだ。経を読み終え、布団の中に入ると何者かの笑い声がする。けけけけ、けけけけ。すっと障子が開くとそこには昼間に受け取った傘が経っている。けけけけ、けけけけ。傘は柄を下にして上下に浮き上がりながらゆっくりと僧侶に近づいてくる。ぱっと傘が開き一回りすると傘に一つの目と、一つの口が現れ、けたたましく笑っている。
「おう、おう、ちょうど退屈をしていたところだ。酒をもらったがどうにも一人ではつまらない。こっちに来て付き合わんか」
「ふざけた坊主だ。堪忍ならん」
 傘が開けた障子から次から次へとモノノ怪が現れる。一つ目小僧にのっぺらぼう、蛇女に、徳利おばけ。
「愉快じゃ、愉快じゃ。いい塩梅にそろったものじゃ。さぁ、酒ならまだあるぞ。遠慮はいらぬから皆で飲もう」
 僧侶は村人からもらった酒をまだ一滴も飲んでいなかった。3日分の酒を目の前に並べてモノノ怪ひとりひとりに酒を酌んだ。
 モノノ怪はあっけにとられ、僧侶をしばらく見ていたが、みな、酒が好きだったので、僧侶と一緒に飲み始める。
「なぁ、坊さん。あんた化け物が怖くないのか」
「そりゃ怖いさ。じゃが人と比べればどうということはない」
「そんなに人が怖いか」
「それはお前さんたちが一番よくしってるんじゃないのか。だからこんな山里の寺に隠れ住もうとしたのであろうよ」
 僧侶の言葉にモノノ怪たちは口々に言う」
「ああ、人はすぐ我らをすぐに払おうとする」
「だからここで我らも人を払ったまでよ」
「少しは話を聞いてくれてもいいものを」
「我らとて居場所が必要じゃ」
「我らとて忘れ去られるのはさみしいものよ」
 僧侶は夜通し酒をモノノ怪たちと酌み交わし、ある提案をした。
「ならばこのままここにいるがよい。わしが面倒を見る代わりに、村の人を脅かしたりはせぬことじゃ」
 モノノ怪は僧侶と約束をし、日上るころにはすっと姿を消してしまった。
 次の朝、僧侶は村人たちにその話を聞かせ、モノノ怪の形を模した木像を奉納させた。以来、その寺にモノノ怪は現れなくなったが、雨上がりの夜、寺の中から楽しく宴をする声が聞こえたとか、聞こえないとか。

題目不明の落語のものまね

 何分50年近く前のこと、記憶が不鮮明な部分をかなり脚色していいるが、概ねこんな話だったかと思う。筆者はこれを偉く気に入り、学童保育クラブの夏祭りでこの題目を自分なりにアレンジして披露したことがある。会場は大いに沸いた。お化けの話をしているのに人は笑うのである。そのとき少年だった筆者はお化けのモノマネらしき動きをやって見せて、それが特に大人には受けたのだ。

 幽霊ではないが、妖怪のモノマネをして人はそれを観て笑う。より大人に受けが良かったのは、小学生が一生懸命妖怪のモノマネをしている姿が滑稽に見えたのか、それとも「似ている」と思ったのかはもはや確認する術がないが、思うに、大人ほど唐笠お化けや一つ目小僧、蛇女に徳利お化けのイメージがあり、そのイメージに近づけようと身振り手振りで表現しようとしている子供をかわいいと思いながらも、それをイメージできない何人かの子供よりは笑えたのではないだろうか。

 実際、廃墟のような寺に何日も寝泊りするというだけで人は怖いと思うはずだし、妖怪が実際に現れるまでの物音や気配、肩を叩かれたり息を吹きかけられるというはともすれば失神ものである。
 これはそもそもが笑い話なのでキンカンの法則がきちんと生かされている。だが果たしてそれだけで人は笑えるのだろうか。

 超自然的で不可解なものを人は怖がる。その具現化が幽霊であり妖怪だとすれば、その話だけでも人は怖がるはずである。にもかかわらず笑い話として成立するということは、これまで述べてきたように人が何かを大笑いする心を手に入れたのは、やはり極度の緊張状態=恐怖を笑いによって帳消しにする必要があったからではないか。
 そしてつまり逆もある。笑いが緊張に変わる瞬間、恐怖心は増すのではないだろうか。次回はそのあたりを検証しようと思う。

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