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【心の解体新書】11.心の言語化と会話の役割~オチのない苦労話はいらない

心の解体新書】は筆者が一年後(2025年夏)までに『人はなぜ幽霊を怖がるのか、人はなぜモノマネを笑うのか』というお題に対して答えていくための思考メモです。そのために
・人はなぜ心を持つようになったのか
・心の機能――身体と心の関係と心の役割
・人はなぜ笑うのか
・人はなぜ怖がるのか
・心と感情と知識の相関図
・心は鍛えられるのか
・共通認識と普遍性
・心の言語化と会話の役割
・幽霊をモノマネすると人は怖がるのか
・心の解体――計算可能な心と不確定要素
といったテーマを今後掘り下げていきます(改変、追加削除あり)

 はじめに言葉ありきとはよく言ったものだと思う。

《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から》創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。言葉はすなわち神であり、この世界根源として神が存在するという意。

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 デカルトは我思う、ゆえに我ありは哲学史上で最も有名な命題を示したのは、17世紀初頭であるが、この言葉は、思考によって「心の存在の言語化」を果たしているともいえるのではないだろうか。
 思考する人間がそれを言葉によって他者に伝え、後世に残すことができるというのは、生物が遺伝子によって個の情報を次世代に伝え、存在領域を拡張していくのであれば、人間は心を言語化し、言葉によって思想や技術をより多くの人に伝え存在領域を拡大化することができる地球上で唯一の生物であると言える。
 ゆえにはじめに言葉ありき。内なるもの=心を言語化するのは神からの啓示、福音として神の教えを言葉にして世界に広げるという仕組みと同じである。

 哲学と科学と宗教は存在しないものの言語化である。人はなぜ人であるのかと考え始めた古代人が自然の中に魂(spirit)を見出し、祖先(死んだ身内)の脳を食らうことでその知識を受け継ぐという今では考えられないような行為も複雑な言語体系を手に入れてからは必要としなくなったのだと筆者は考える。やがて人の集団は「共通の超自然的な存在」に自らの魂を委ねる方法で「人はなぜ人なのか」という答えを見出し、そこから現在の宗教に至るまで、様々な神が各地域に存在していた。それらを集約していき、今の世界の宗教分布は成り立っている。
 日本人からすれば、西洋はすべてキリスト教を信じていると思いがちだが、その中心地であるローマから遠ければ遠いほど、アクセスが悪ければ悪いほど、古代神話が現存している。ヴァイキングの北欧神話フィンランド叙事詩 カレワラがそれにあたる。

 4月に新宿のSOMPO美術館で開催されていた「北欧の神秘―ノルウエイ・スウエーデン・フィンランドの絵画」展は、そうした日本人にはあまりなじみのない神々を称えた絵画を堪能でき、とても有意義な時間を過ごせたのだが、ここでも筆者の心を引いたのは、伝説的な怪異、トロールだった。どんな国のどんな文化にも妖怪や怪異というのは存在し、それらが恐れられていたのは産業革命以前であるという共通点もまた面白かった。

 抽象的な恐怖という感情、何かを恐れる心を言語化によって具現化する上で、自然災害は神の怒りとしてゼウスの雷雷神トールなどがそれにあたり、正体の分からない物音を小豆洗いや水辺に済む河童蛟(ミズチ)というその場所、その地域の危険な存在として伝承された妖怪たち、収穫の恵みや漁の豊漁には山や海の神を奉り、敬う。
 人は森羅万象を言語化し、共通の理解をするために物語を作り伝承してきた。いかに誰かが言語化しようとも、それが広く伝わるには物語が必要で、なぜ必要かといえば、それは言語を相手に伝えるには会話が必要、なぜ会話が必要かといえばその会話、話者の技量によって愉しく笑え、恐ろしくおののくことができるからである。

 週末に一人の女性と知り合った。互いに団体行動をしていたので、後日二人であってゆっくり食事でも(いや酒を飲むのがメイン)しようと約束をして昨晩は夜通し酒を飲みながら互いの考えや過去の出来事、それについてお互いにどう感じどう思い、どう考えたのかという会話を楽しんだ。
 その会話によって時空を超えて互いを理解することができるというのは実に素晴らしいことだ。もちろん会話の原則は「かいつまむこと」であり、どこで生まれて、どういう環境でどう育ったかなどという自伝を読み聞かせるような会話は退屈きわまりないのが普通である。
 会話が苦手という人の傾向としては「何から話せばいいのかわからない」というのがあるが、そこに至る失敗談を聴くと「最初から最後まで説明をしようとしたら、相手に飽きられてしまった」という例が少なくない。

 この日盛り上がったのは、「オチのない苦労話はつまらない」という言葉に集約される。これは筆者が昨日の会話を言語化するのであればこうなるのだが、この要約する能力こそ、言語化である。
 初対面で互いが「一緒に会話をして愉しい人」だと認識するためには言語化よりも以前ここで紹介した微笑【Smile】音笑【Laugh(ter)】が大きな役割を持つ。

 そのうえで相手の会話能力(俗にいうコミュ力)が問われ、わずかな会話のやりとりで敵味方、楽しい退屈を判断する。味方・楽しいと判断した場合、そこからさらに細分化された要素が組み込まれる誠実さや知識の豊富さ、経験の豊かさ、ふるまい、品性といったふるいと会話のテンポや音量、音質、身振り手振り(佇まい)などをくみ取って「この人とはどこまで話してもいいか」という判断をし、自分の身の上を少しずつ明かしながら親密度を上げていく。
 ある程度上がればあとは「もう一度会いたい」と思うかどうか。それは感覚であり、行動原理としてその人が何を基準にして考えるかなのだが、その基準を探るような会話を楽しく、最低でも相手を不快にさせることなくできるのであれば、それは何度もあって話ができる相手となりうる。

「苦労話をすぐにする人ってさぁ、なんかダメなんだよね」という相手の振りに対して「わかる」とだけするのか、「そうだよね。この前も取引先の担当がさぁ」と自分の手札からカードを切ってそれを聴いた相手が「いるよね。そういう人苦手だわ」と笑ってくれるようなオチのあるエピソードを手短に披露できるかどうか。
 このあたりを彼女が言うといころの「コミュ力の高さ」として、評価してもらえたのだと思うが、そもそもそういうことが生まれたときからできていたわけではなく、経験と知識としての整理がされているかどうかなのだと筆者は思う。

 オチのない苦労話など、結局会話を止めてしまうだけで、この猛暑の中で、暑いよね。うん、暑い。で終わってしまうのか、実際に熱中症になりかけた、なった、そういう人を見た、聞いたという話を相手が不快(不安)にならないようにできるかどうかを精査して会話のカードとして切ることができるのであれば、この人と話をしていると愉しいとなるのではないだろうか。

 言語化とは事象を細かく伝えることにとどまらず、ときに比ゆ的な表現を用いながら、簡素化、記号化することも含まれる。会話においてはそれが重要で「なにそれウケるぅ」や「やばいじゃん」といったニュアンスの言語化を状況によって使い分け、誤解のないように使えるかどうかが「会話の得手不得手」となるのではないだろうか。

 自慢話と苦労話は誰にでもあるだろう。あるからこそ、簡素化してオチをつけられるようなテクニックがない人の自慢話や苦労話はいわゆる「どんびき現象」を引き起こしてしまう。熱中症で倒れたとい話に対して「なにそれウケるぅ」と答えて周りを引かせるのを「空気が読めない」というのと合わせて、「退屈で不快」という状況を作り出してしまう。

 思うに、怪談はもっともよくできた会話アイテムで誰でも人を怖がらせることができる。逆に「おもろい話」というのは間の取り方や緩急ができていないと相手を笑わすことが難しい。間と緩急が上手な人はどんな話でも人を笑わすことができるとも言える。

 吟遊詩人は歌に乗せ、韻を踏みリズミカルに物語を語り、多くの人がそれに耳を傾ける。会話も同じで言語化した「エピソード」をいかに簡素に相手に伝えられるかで弾みもすれば沈みもする。弾んだ会話は噂話として拡散されやすく、沈んだ会話は埋もれてしまう。

 さて、これでようやく本題に入れる。人はなぜ幽霊を怖がるのか、ものまねを見て笑うのか。それを解き明かすのに必要なアイテムはすべてそろった。「人の脳には補完能力があるからじゃないか」という仮説から先に進むための下地として「人はなぜ心を持つようになったのか」から今回の「心の言語化と会話の役割」までを踏まえて、次回から確信に触れていきたいと思う。

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