水割り360_1

MIZUWARI

「"ありがとう"って言って、それで別れるつもりだったんだぁあ。わたし」

 彼女は手に持ったグラスを眺めながら、口をとがらせて、そう訴えた。
「でも、あの人があんなこと言うから……」
 
 カラン、カラン、カラン

 グラスにはすっかり溶けてしまった小さな氷が浮いている。それをくるくると回すたびに、安っぽい音がする。

「わたし、わかってたんだ。こうなること。だから覚悟はしていたし、あの日だって半分は、そのつもりだったのよ」

 『そのつもりだった』という言葉を少しだけ濁して、彼女はグラスに残った水割りを一息に飲み干す。僕は彼女が勢いよく置いたグラスを手に取り、ウイスキーの水割りを作る。

 さっきよりも薄く。

 一杯目に比べれは半分の薄さ。もう4杯目か、5杯目か。
 僕ならとっくに出来上がってしまっている量を、彼女はまるでスポーツドリンクを飲むように体に流し込む。
 のどの渇きはともかく、心の渇きはまだ収まっていない様子だ。

「でもね。わかっていても……、頭でわかっていても、『ハイ、そうですか』って具合には、いかないのが人生?」

 質問なのか、自問自答なのか。それとも同意を求めているのか。おそらくはそのどれでもない。

 新しく入れた水割りのグラスを両手でつかみ、手のひらに伝わる冷たい感触を確かめながら、彼女は僕を睨みつけた。

「ねぇ、これ、少し、薄くない?」

「そんなことないです。もし薄かったら、次に入れるときにもう少し濃くしますよ」

 一瞬ヒヤッとしたが、彼女の関心はすでに他のことに移っているようだった。

「あぁ、この曲、懐かしい……」

 店内に流れている有線放送は、70年代から80年代のヒット曲が中心で僕にとっては古くて新しい。

「ねぇ、思い出の曲、て……、ある?」

「いえ、特にそういうのは……」

 僕には、わかっている。

 僕が何を言おうと、それが会話の中心になることはない。
 僕の脳裏には、何曲かタイトルが浮かんだが、彼女が言いたいのは、自分のことだけで、僕の想い出話など、どうでもいいのである。

 カラン、カラン

 彼女はまた、氷をグラスの中で回し、僕が薄く作った水割りを、恨めしそうに眺めていた。

「わたしはねぇ。いっぱいあるの。ありすぎて困っちゃうの。思い出の曲」

 彼女のことを”恋多き女”などと周りは言ったりするけれど、僕が知る限り、そのほとんどは片思いで、しかも自己完結している。
 一般的に言う『恋多き女』とは、まるで違っている。

 恋に恋する女
 恋に臆病な女
 恋愛依存症な女

 どれでもいいが、ともかく彼女は常に一途で、捨てられることはあっても、捨てることはない。二股をかけられることはあっても、かけることはない。そういう女(ひと)だ。

「そりゃあ、相手が妻子持ちだっていうのは、最初から分かっていたわ。子供じゃないんだから、そんなとき、どうすればいいかなんて、他人に言われなくってもわかっているわよ」

 いや、わかっていない。わかっていないから、傷つくし、傷つける。

 そして毎度、こうして僕に事後報告をする。
 先に話を聴くこともないわけではないけど、ほとんどの場合、手の施しようがない状態で、話を持ってくる。

 僕にできることは、こうして、ヤケ酒に付き合うことぐらいだ。

「わかってる? 今夜はとことん飲むわよ」

 わかっています。わかっていますとも。僕が一番、貴方のことをわかっている。そして貴方がそれをまるでわかっていないということも、僕は知っている。僕がどれだけ貴方のことを……。

「ねぇ、どうしたの? 今日はノリが悪いわよ。お酒が足りていないんじゃないの?」

 これ以上僕を酔わせたら、僕の心は溢れ出してしまうから……。

「ごめんね。いつも付き合わせちゃって」

 ちがうんです。本当はありがとう、って言ってほしかったんです。

「また、ごめんねって、言っちゃったんですね」

「そうなの。でも、どうせなら、バカヤローって言えばよかったかもね」

 そう。僕もこの店を出て、彼女と別れたら、そんな気分になるのかもしれない。
「バカよね」

「そうですね」

「本当、バカよね。私……」

 いえ、ちがいます。本当に、バカなのは……。

 カラン、カラン

 今度は、僕が、薄く、薄く作った水割りに浮いた氷をまわし、それを一気に飲み干した。

 なみなみと注がれたコップの水をこぼさないように、僕はあと何枚、コインを落とすことができるだろうか。

 一枚か、二枚か。それとも……。

 いつの間にか、店内には、僕の想い出の曲が流れていた。


音声でもお楽しみいただけます

脚本:めけめけ
製作:音声劇団五里夢中 http://beinadream.web.fc2.com/
twitter:https://twitter.com/GoRiMuChu1



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