【心の解体新書】13.幽霊をモノマネすると人は怖がるのか~裏鏡の最果て
ドリフターズのコントに年を取った耳の遠いい神様というネタがある。誰も(とはかぎらないが)見たことのない神様という存在も、その振り、ものまねではないが人が見てあー、神様だと思える「特徴」を誇張しているので、見た目で笑えるし、やり取りでなお面白いことになる。
同じように幽霊もその存在を物理的に証明はできていないが、「うらめしや~」と白装束で現れれば「志村うしろー」と子供たちはそれが「お化け」「幽霊」であることを認識する。
よくよく考えると白装束の幽霊というのは、実に奇怪だ。白装束というのは死んでから着せられる衣装である。つまり死者はその姿を自分で観ていない。認識していないはずなのに、白装束=幽霊というイメージは共通認識といっていい。ただ、現代における幽霊というのは、白装束や足がないといった姿ではなく、せいぜい顔色が悪い、表情がうつろという姿に口から血、乱れ髪、さらに靴を脱がせて裸足にするとか、地味な服装などがトッピングされて映像化されることが多い。
そんなはずはないのだ。筆者が幽霊として誰かに見られるという意識があるのなら、お気に入りのいつも着ているシャツにジーンズ、一見してめけめけであるとわかる格好で現れ「いやー、元気に生きているかい?」みたいなことを言えるなら言うだろうし、相手を怖がらせようなんて思わない。
もちろん幽霊話にはまるで生きているかのように自然にふるまっておいて、実はもうこの世にはいませんでしたという話もあるが、そういう話はあまり喜ばれないというか、怖がられない。
つまるところ幽霊とは恐怖のシンボル、アイコンであり、存在するかどうかではなく、怖いかどうか、恐ろしいかどうか、その具現化であるのだからつまりは恐怖という物真似であると考えられる。では幽霊は具体的に何のイメージを具現化したものなのか。
東洋でも西洋でも幽霊は『恨みつらみ』という『怨念』の具現化である場合が多い。これは人から恨みを買うような生き方はあとで恐ろしいことになるよという戒めとして伝承される。歌舞伎の演目でもある『四谷怪談』はそのもっとも洗礼された怖い話=怪談であり、そのシナリオ的演出は百鬼夜行の時代、帝の寵愛を失った女が悲しみのあまりに鬼に変わっていくといった鬼女にまつわる怪奇譚の江戸の世のアップグレード版であると言える。
シャークスピアは『ハムレット』の中で主人公の父の亡霊の話を聞くことで復讐を誓うという展開になる。女性の恨みと並んで権力に絡んだ遺恨の物語は古今東西、逸話として残っている。
これを心理学的なアプローチで解明しようとすれば、無意識の顕在化としての幽霊、すなわち疑惑や恐れ、不安を脳がエラー処理をして見えないもの、聞こえないものを幽霊という錯覚を生み出すということになるのだろう。人が幽霊を怖がるのは、実はそうしたストレスに対しての警報であり、知らないうちに自分が誰かの恨みを買ってしまっているかもしれないという不安が生み出した幻影であるがゆえに、反射的に幽霊に恐怖する、つまり脳の補完能力が目に見えない、耳に聞こえないものを疑似再生してしまうエラーとも捉えることができる。
しかし果たしてそれだけだろうか。物書きである筆者は物語を書く中でいろいろなキャラクターとその背景を創造し、事件が起きる舞台とキャスティングを行い、演出を施す。怖いもの知らずの豪胆なキャラクターが必要だったとして、どんな敵、どんな逆境にも恐れることのない偉丈夫が実は幽霊が苦手だという設定は好きだし、どんなことでも論理的な思考をもとに恐怖を克服するのような知に偏ったキャラクターも好きだ。現実にそういう人もいるのだろうが、身近なところでは自動車の運転はどんなにスピードを出したり、無茶な運転も怖くないという人間がジェットコースターは苦手だと言って、かたくなに遊園地に行くのを拒む人が居る。彼曰く、自分で操縦できるものは怖くないが人の運転、まして自動で動くものは怖いという。なるほどと思う反面、その感覚には寄り添えない。なぜならそれを怖がらない人も少なくないからだ。
同じように幽霊の怖さは、どんな偉丈夫でも幽霊をぶん殴ることはできないからと言える。『呪いのビデオシリーズ』など多数のホラー作品を世に送り出している白石 晃士監督は『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』という作品で、物理で怪奇現象に対抗するキャラクターを生み出している。もちろん創作の世界の話であるが、特殊なバットで幽霊をぶっ飛ばす展開はむしろその人間の狂気に怖さを感じる。
これは有名なゾンビ映画を世に送り出したジョージ・A・ロメロ監督の文脈、すなわちゾンビよりも本当に怖いのは人間であるという作風に通じるところがある。
そう考えると幽霊の怖さとは、幽霊がもともと人であるということが根本にあるのではないだろうか。人は人を怖がる。その具現化かつ抽象化された共通認識として幽霊は存在し、人を怖がらせる。
こうして考えると改めて恐ろしくなる。幽霊の正体とは筆者自身であり、読者である。あなた自身ということになる。
なるほど、近代ホラーがゾンビの感染、貞子の呪いの拡散を描いているのも怖いのは人であると読み取れる。エドガー・アラン・ポーの『赤死病の仮面』はパンデミック下での人の狂気を描きながらもそこに亡霊なのか亡者なのか妖怪なのかわからない仮面をかぶった怪異を登場させたのも、恐怖の具現化、記号化と言えるのではないだろうか。
結論、人が幽霊を怖がるのは幽霊が人であり、人は人が怖いからである。実に不毛な結論であるが、ゆえに幽霊はどこにでもいるし、どこでも怖がられる。
あな恐ろしや
幽霊の正体見たり
裏鏡
鏡とは反射率がどんなに高くても、数パーセントずつわかりやすく言えば影が薄くなり、やがて反射できなくなる、つまり映らなくなる。鏡に映らないという現象を目の当たりにすれば、人は不快になる。なぜなら存在が消えていく過程、鏡に映らないのは存在が否定されているような気分になるからだ。だから幽霊は半透明で描かれることが多いし、その語りにはなぜか恐怖心が付きまとう。
幽霊の正体が人が人を怖いと思うからという結論はあまりにも残酷なので、筆者としては、これをこの紙面での結論として置き換えたい。誰にでも救いは必要だ。
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