見出し画像

受験メモリ☆≡。

大学受験が終わって一週間程経ったので私の6年間の歩みを勉強とともに思い返してみようと思う。ダラダラと。とある女子高生の記録です、自己満なので色々書いてたらまじで長くなっちゃった。

小学校時代

まず私は小学校の時に中学受験をして近くの中高一貫校に通うことになった。
小学校の頃は勉強がとくいでテストも満点取るような子だったから両親のすすめで進学塾に通って受験に挑んだという形だ。

当時地元では中学受験をする子なんて学年に二桁いるかいないかだったので、自分の中では人と違う感があってちょっと優越感を持っていた。
塾も頭のいい子や面白い先生がいっぱいいてとても面白かった。夜遅くまで勉強した後に家の方面が同じ仲良い子達と電車に乗って帰ったのはいい思い出。

そういう訳で、2月の勝者になるべく勉強に励んだ訳だが残念ながら第一志望には落ちてしまい第二志望の中学校に進学することになった。

中学入学後〜

晴れて憧れの中学校生活を迎えた私は現実を知ることになる。宿題の多さ、授業の速さ、みんなの真面目さにだんだんと着いて来れなくなっていき中学2年になると定期試験もあっという間に下から数えた方が早くなっていた。
勉強に着いて行けなくなるとやる気もなくなり授業もつまらなくなっていき爆睡するし、どんどんおいてけぼりになって行った。

そしてこの時期いちばん大変だったのが部活だ。私は文化系の部活に入っていたのだが、なにせ全国に行くようなところにひょこっと入ってしまったので練習がほんとに過酷だった。今思えばもうあれは顧問の自己満なだけなのではと思う。
その上さらに部活内の友達との仲も悪くなっていき、平日はほぼ毎日、日曜も午前午後とある様な部活は超つまんなくなって、結局中3の夏にやめた。ぶっちゃけやめて正解だったと思っている。

コロナ期間から中学卒業

そして中2の冬、ここで来るのがコロナだ。最初は学校もないしダラダラ友達とゲーム出来るしラッキーと思っていたが、そんな日々が続くはずもなくオンライン授業が始まった。これがマジで辛かった。何が辛かったかって私がかなりの怠惰だったからだ。

次から次に出る課題。毎日パソコンの前に座って着いていけずにもはや何を言っているか分からない授業。突然当てられる質問。ごめんなさいわかりませんと言う私。それを聞く皆。次から次へと来る宿題提出の催促。
思い出すだけで頭が痛くなる。

多分この頃から私の心がだんだんおかしくなっていった。何もこなせない自分に失望し、自信がどんどん無くなっていった。

中3になって少しずつ普通の登校が増え始めても私の中の心の暗がりは消えなかった。
特に定期テスト前はほんとうに酷かったのを覚えている。中々やる気が起きずに勉強を放置して、でもやらなきゃいけないのには変わらないのに立ち向かえない意思の弱い自分が憎くて、大嫌いで。自暴自棄になって毎日泣くような有様だった。

勉強に重きを置いて、いい大学を目指すような学校だったから、周りの同級生も勉強が出来る出来ないをひとつの物差しにしていたと思う。
同級生はいい子が多いし、学校生活も悪いわけじゃなかったけれど、やっぱり心の中では見下されているんじゃないかという気がして居心地が悪くなっていた。
逆に勉強があまり得意じゃない子たちとつるみ始めてみたりしたもののその思いは強くなるばかりだった。

高1と高2

高1の秋くらいまではただの中3の延長だった。病んだり戻ったりの毎日。
でもほんとにこのままの自分を変えたい、抜け出したいと思って、冬くらいに思い立ってツイッターで勉強垢を始めた。ついでに勉強を記録出来るスタディプラスも始めた。

勉強垢で友達も出来て、だんだんと自分で目標を決めて少しずつ少しずつ勉強に立ち向かえるようになっていった。変わっていっている自分がすごく凄く嬉しかった。
あんなに大嫌いだった定期テスト期間でも毎日勉強が出来るようになっていった。

そして今の2個上の卒業シーズンになって、前入っていた部活の先輩が早稲田大学に入学することを知った。それから私は早稲田大学を目指すことに決めた。

高2になって、学校でもより受験を意識した話がされるようになっていった。
中学の何にもやる気が出ない自分には戻りたくないと思い、できるだけ頑張って机に向かうようにした。特に英語を頑張った。だんだん定期テストも模試の偏差値も上がってきて嬉しかった、すごく。
だけど、自分は気分の波がものすごくある人で全然勉強が出来ない時もあった。どうしても身体が動かなくなっちゃって、それがどうしても辛かった。

高3、受験生になって

スタプラ見ればわかるんだけどまじで勉強時間がガタガタ。やっぱり受験はメンタルゲーだなって思った。いやー辛かった。

先輩たちの共通テストが終わってから、一度止まってた勉強を受験勉強に切り替え、再スタートしてまた頑張ろうと思った。
私は私立文系を選んだのでやっぱりまずは英語!と思って基礎から参考書などを使って勉強し始めた。週一で早慶大英語の塾の授業も受けることにした。

5月までは順調に勉強時間も増えていったけれど、やっぱり鬱がきた。身体が重くなる。なんだか涙が出る。そんな日々が2週間程続いたあとまた再開するというループが多くなっていった。

そして受験の天王山とも言われる夏休み。ここで私はメンタルが崩壊した。記憶がほとんど思い返せなくなっている。
夏休み全体の目標の半分くらいしか出来なくて、もう受験は終わったと思った。家族にも迷惑かけて本当に申し訳なかった。

みんなは頑張っているのに、私は出来ない。今頑張らなくていつ頑張るのだろう。毎日泣いた。3週間くらい寝込んでいた気がする。
高2の終わりから通っていたメンクリに行って薬を増やしてもらったけど、あまり効果は実感できなかった。

でも8月後半からまただんだんと復活していって9月はそれを取り戻すように頑張ることが出来た。
でも10月にはコロナになってまた出来なくなる日が続いて、まじでジェットコースターみたいな日々だった。早く終わってくれといつも願っていた。

11月、12月は過去問演習に入って、全然解けなくて泣いた。やっぱり心が不安定で皆よりは勉強する時間は少なくなってしまったけどできる限り塾に行って自習した。
出来る時は9時から21時まで塾に行って1日10時間〜12時間、出来ない時はゼロ。どうしても安定させられなくて辛かった。

そのような生活が続いてなんとか共テを受けて、英語が難化していたのでキツかったが割といつも通りの点数をとることが出来た。
しかし共テが終わってからがメンタル絶不調になる。また寝込む。もう終わりだ、とまた思った。とりあえず受けれるだけいいや、と思いながら1月を過ごしていた。

メンクリの先生にも今までにやってきたことが無くなる訳では無いし、受けれるだけで偉いし何かが変わるかもしれないよと言われ、両親にも救われ、なんとか持ち直して残りの1月を過去問演出に充てることが出来た。

受験期

とりあえずメンタルは割と復活して初戦に挑むことが出来た。
早稲田はきつくなってしまったのでMARCHの層を厚くしてその下のラインを2校受けた。一応滑り止めは共テで取れていた。でもそこは私の高校の附属大でもあったのでもうどこでもいいやと思いながらも、やはりそこには行きたくないなという気持ちだった。やっぱりこの一年何度倒れながらも受験に立ち向かった証が欲しい。そう思った。

行ってもいいなと思っていた2校目で受けた学校でまず合格を頂けて、後半の受験のメンタルサポーターになってくれた。
本命は緊張していたのかあまり力が出せなくて辛くなってしまったり、違う学部では電車酔いで試験前に気持ち悪くなってしまったり、遅延で気分が悪くなったまま受けたりと色々あったがなんとか全て受け切ることが出来た。

もう受験なんて出来なくて就職かなと思ってたところだったので受けきれただけでもとても嬉しかった。安心した。
それでもだんだんと欲が出てきて、MARCHは受かっていて欲しいと毎日合格発表までひやひやしていた。

しかし2校目に受けた学校以降不合格が続いた。受験は終わったのに終わった気がしなかった。
そして自信があった最後の大学の合否を見るためにお母さんとウカロを見ようとした瞬間、電話が鳴った。お父さんからだった。
どうやら私は合格したらしい。お母さんと一緒に叫んだ。合格の文字のある画面を見直してまた叫んだ。本当に本当に嬉しかった。辛かった受験生活も全て報われた気がした。
間違いなく私の人生のターニングポイントになる一年だったと思う。メンタルも限界でギリギリだったけど一般受験でチャレンジ出来て本当に良かったと思う。

おしまい

この中高6年間たーくさん病んだしもう学校辞めようかとも卒業だけして大学はどこでもいいや就職するかとも思ったけど、最後までやり切れて本当に良かった。
この6年間は本当に私の宝物です。

そして支えてくれたお父さん、お母さん本当にありがとう。二人が居なければ卒業式を迎えることは出来ませんでした。
これからももっと自分を磨いて、豊かな経験を沢山して、素敵な女性になっていければいいな。がんばろう。

やばー書いてたら色々思い出してまた泣きそう。とりあえず大学生活楽しむぞー。

この記事が参加している募集

#受験体験記

1,437件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?