桜華乱舞の中学時代②
幼少期からパップちゃんと呼ばれるようになった少年は、小学校を卒業し中学校へ入学した。
そして、未知の世界「吹奏楽部」へ入部。
見たこともない楽器を与えられ戸惑う少年時代から物語は始まる。
当時の中学生
と、その前にもう一度言いたいことがある。
当時の地元の中学は、時代背景を垣間見ても「時代遅れ」としか言いようがなかったと思われる。
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男子は坊主頭(強制)
女子はオカッパに近い髪型。
イラストにもあるが、学生帽なるものも付随していた。(富士額は個人的な特徴)
登校時は必ずかぶらなければならず、さながら戦時中の学生のようだった。
強制的に坊主頭(五分刈り推奨)だったが、ファッションや格好など無頓着だった私には、手入れが簡単で逆に良かったかも知れない。
中学になるとなぜが登校時はランドセルから指定のリュックとなった。
ジャージは学校指定の、これまた超ダサいエンジ色のジャージ。
体操着も指定の半袖。
男子は体育座りすると隙間から具が「こんちには」するトランクスタイプ。
女子は今や化石となったピッタリフィットブルマー。しかも上の体操着はINしなければいけないというしきたり。この意味分からないルールだけはセンセーを褒めたい気分だ。
まだこの頃は上履きの指定ズックはなかったため、ここが個性の見せ所だとばかりに、紐の色を変えてみたりハイカットのバスケットシューズを履いてみたり……と、エフリコキ(見栄っ張り)達は頑張っていたものだ。
ただ、皆が同じ流行っていたCONVERSEのバッシュを履いているのはどうか?と思っていた。逆に個性もかけらもないのだ。
現在のハロウィンでの「みんながやっているからやる」という精神に似ている気がする。
しかし、がんじがらめの規則の中でなんとか個性を出そう!という気概には感心させられたものだ。
その他
リュックはペタンコ状態でセカンドバッグに道具を詰め込んで持っていく。
ジャージの裾の折り方にも流行りあり。
坊主頭でも少し横を短くして、オーデコロンをふりかけてくる男子などなど。
今思えばその抵抗も微笑ましいものだ。
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話しが脱線したついでに
団塊ジュニア世代と呼ばれる我々世代は、第二次ベビーブームに産み落とされた人々である。
田舎だがマンモス校と言われている地元中学は、2つの小学校から集まり、1組から8組まであった。とんでもない人数だ。
たしか一学年が320名くらいいた。
いまだに名前すら知らない同級生も多い。
私は真ん中の1年4組。
このクラスに入った事で私の中学時代が180度変わることになろうとは、この初期の段階では予想もしていなかった。
吹奏楽コンクール
トロンボーンとの出会い
さて、本題に話しを戻そう。
体育祭後、急遽チューバからトロンボーンに楽器が変わった。
これにより3人しかいないトロンボーンは、コンクールメンバー確定。
小学校からの経験者だった親友ヘチャヤでさえ、人数の関係でその枠に入らなかった。
他の曲なんてどうでもいいから、このコンクールの曲だけ覚えろ!!と先輩から指令が下った。
楽譜どころじゃない。
まずはトロンボーンのポジションを覚え、吹けるようにならなければいけないのだ。
どのように練習してどのようにコンクールに出たのか……あまり記憶にない。
それくらいその当時はイッパイイッパイだったのだろう。
厳しくて嫌味ばかり言う3年生のパートリーダーは嫌いだったが、徐々にトロンボーンという楽器には興味が湧いてきたのもこの辺りである。
文化祭
コンクールと違って、歌謡曲や色んなジャンルの曲を演奏する文化祭ははじめて「楽しい」と思える舞台だった。
ステージに立つという事に快感を覚えたのもこの文化祭が最初であったに違いない。
文化祭が終わった頃に、嫌味パートリーダーが「おまえうまくなったよ」と、はじめて褒めてくれたのを鮮明に覚えている。
3年生の引退
行事が全て終わり、3年生は引退の時を迎えた。
部室である音楽室でささやかなお別れ会が営まれた。
一人一人3年生が挨拶をし、各パートの下級生からも一言ずつ……。
いつもふざけておちゃらけている自分は、そこにはいなかった。
Mr.嫌味のパートリーダーから
「この1年でよくやったよ。きっと俺よりおまえはうまくなるよ」の言葉に、自分でも予想してなかった大粒の涙がこぼれていた。
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これには逆に先輩方が驚いていた。
そんな感情が芽生えた吹奏楽部での1年だった。
出た杭は打たれる
少し部活動に主軸が行っていたが、1年4組に話しを戻すことにする。
学級で1、2を争う目立つ生徒になった私だが、目立ちすぎていると色んな弊害が出てくるものである。
時間の経過と共に、クラスの不良に憧れるグループが徐々に徒党を組んでいった。
もちろんそのリーダー格「太鼓持ち虎の威を借る狐太郎」(略して狐太郎)は、目立つ私を排除しようと手下達を使って嫌がらせが始まった。
文句があるのなら直接自分で言ってくればいいものを、わざわざ下っ端のショッカー戦闘員をけしかけて来る。
狐太郎に向かって「文句あるなら直接言えや!」と大声で言ってみたが、元々が派遣業で自分で稼がないタイプの野郎なので直接は言ってこない。
怖そうな先輩に太鼓持ちのようにヘラヘラと媚びを売り、その先輩の威をかりて勢力を拡大する狐太郎。
一番嫌いなタイプだ……。
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こいつにだけは絶対屈しないと心に決めて、一切気にせずいつも通り楽しく振る舞っていた。
効果がないと諦めたのか、徐々に嫌がらせも無くなっていった。
後に狐太郎は営業職に就くのだが、持ち前の特性を活かして営業成績は抜群だったという。
奴には天職といって良いだろう。
通信簿に見るぱぷちゃんの成績
授業中は相変わらず勉強など一切せずに、絵を描く毎日。
勉強したくても小学校の不登校時代に抜け落ちた基本がないため、特に数学などは解けるはずがない。これは致命的だった。
通信簿は1〜5までの5段階。
国語2
数学2
理科2
社会2
英語2
美術5
体育5
音楽5
という、わかりやすい通信簿だった。
これだけやってなくても1が無いのが不思議なくらいだった。
上には上がいるが、300人もいれば下には下がいるのだろう。
通信簿はまさに好きなことしかやってない証だった。
しかし、学校は特化した5の教科など褒めてくれるはずもなく平均的な均等五角形グラフになれ!と強制してくるものだ。
特技を特化させてくれない。
苦手なものは、好きじゃないものはいくらやったって得意な人には敵わない。
それよりも評価5のものを10にも20にも伸ばした方がいいのに……。
それで飯が食っていけるのになぁ。
当時もそんなことを思っていたが、今は更に強く思う。
バカと天才は紙一重
よく言ったものだ!まさにその通りだ。
通信簿の通信欄には決まって
団体行動ができない
授業中落ち着きがない
好きなことしかやらない
そんな風にネガティブなものが大半を占め
最後に申し訳無さそうに
「新しい遊びを考える天才」
と、どうでもいいことを褒めてくる。
悪いことばかり並べ立てて終われない、親に対する先生の配慮からの苦肉の策だったのだろう。
その努力には拍手を送りたいと思う。
大変良くできました✨
中1の後半に将来就きたい職業は?というアンケートがあり
「バイクのレーサー」と書いたところ
「真面目に書け!やり直し!」
と、アンケートを返却されたことを鮮明に覚えている。
YouTuberがなりたい職業の今現在から見たら、バイクレーサーだって立派な職業のひとつに違いないのに……。
こういう理不尽な扱いをされた記憶は、いつまで経っても忘れないものだ。
トラウマとなる交際
桜花乱舞の中学時代②最終章
この頃だろうか……
はじめて彼女?というものができた。
好きな子はいたが、告られた子と付き合いはじめた。
はじめての経験だった。
しかし!
この出会いが今現在でも女性に対するトラウマが深く心に根付くキッカケとなるのだった。
このことを掘り下げてゆくのは自分でも勇気がいるし思い出したくもない。
相手のことをこんなところで悪く言うのもなんだからやめておきたいと思う。
ただ、女性に対する恐怖心を抱き、いまだにそれがトラウマになっている事だけは紛れもない事実である。
あとがき
桜花乱舞の中学時代②
記憶を辿りながら執筆しているが、書けば書くほど記憶が蘇ってくる。不思議なものだ。
この頃の自分に何かアドバイスが出来るとしたら……
「好きなことだけやってそれを極めろ」の一言に尽きる。
あれもこれもそれなりに器用にこなすのは、まさしく器用貧乏に成り下がってしまうからだ。
是非、今後の日本の教育は「天才」を生み出せるものにしてほしいものだ。
桜花乱舞の中学時代③へつづく
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