食卓を囲みたかったのに
現実は毎日バラバラに食事をとっている。
この前は朝起きたらマックの包み紙がゴミ箱に捨ててあった。
不健康な食事で寿命が縮まればいいのに
という気持ちもありつつ、一方で
こんな生活がしたいわけじゃないのに
とも思った。
もう慣れたけど、朝起きてシンクに置いてある食器やあるいはゴミ箱に捨ててあるもので相手の夕飯がなんとなく分かる生活は寂しいし味気ないものだ。もう慣れてしまったけど。
毎日二人で同じ夕飯を食べない?
そういう提案をしたとしよう。恐らくお金の問題を切り出されるだろう。
相手のためにご飯をつくる愛情というか情はあるけれども、その材料費を毎日出せるかといったらそれは無理な話だ。
だって生活が厳しいの。
子どもの頃、我が家はみんなで夕飯を食べていた。母親が仕事で帰りが少し遅くなっても帰りを待ってみんなで食べた。子どもたちはお腹を空かせていたから早く食べたがったが、父親のポリシーでみんなで揃うまで待っていた。
大きいテーブルに細かい副菜も合わせたら5品くらいおかずが置いてあり、それをお皿によそって食べていた。
食べながらクイズ番組を一緒に観て解答したり、今日の学校のできごとを沢山話したり、母親が仕事の愚痴をぼやいたり。
食卓はあたたかい記憶として私の中に残っている。あれが私の当たり前であり、理想にすらしていなかった。
大人になった今、わたしはほとんど1人で夕食を済ましている。
ときどき作るが、基本的にはスーパーやコンビニのものに頼っている。
今日は大して美味しくもない卵の炒め物と出来合いの生春巻きを食べ、お酒を飲んだ。YouTubeを見ながらただ口に物を運んで咀嚼するだけの時間を食事と呼んでいいものだろうか。そこには美味しいもまずいもなかった、いや、そういう感情が出てこなかった。
あとこれを30年以上続けるのか
そう思うと気が狂いそうになってくる。
あたたかい場所だった夕飯の食卓。あれは当たり前の光景ではなく、とても尊いものだった。
悲しいね、寂しいね、どこで間違えたんだろうね。
大人になってもあの場所を作りたかっただけなのにね。
おわり
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