見出し画像

「助け合い」が得意な英国人 「譲り合い」が得意な日本人

今年の結婚記念日はコンラッド東京のスイートに宿泊した。5つ星ホテルへの宿泊は、昨年の渡欧で物価が安いチェコ滞在時に「贅沢しちゃおう」と1泊して以来。私たちにとって、日本ではおそらく最初で最後の特別な時間になった。
4年という中途半端な節目にスペシャルなことをしたのは、幸運にもペア宿泊券をいただいたから。記念日が期限ぎりぎりで、「これは運命的!」なんて言いながら予約をとった。

話は昨年の秋にさかのぼる。手伝っているイングランドのNPOの日本事務局代表として、夫がパーティーに出席した。翌日彼から「これ見てみて」と差し出された封筒を「な~に~?」と(ちょっとメンドクサイと思いながら)開けてみて、招待状のようなカードに書かれた文字を読んで、反応まで10秒くらいかかった。日本語だったのに。まったく予想していないことって理解に時間がかかるものみたいだ。

「ん? ペア宿泊券? 泊まれるの!? え!!? これ、どうしたの!!??」

パーティーで参加ラッフルに参加し、会場だったコンラッド東京のペア宿泊券が当選したのだという。夫、なかなか持っている。

コンラッド東京の夕暮れ。
チェックイン時の会話で自然に結婚記念日だということを聞き出され、
その後、Happy Anniversaryのカードとお菓子、支配人からの手書きのメッセージが部屋に届いた。

チャリティーくじ「Raffle」

私は「ラッフル(Raffle)」を、日本でのウェールズ人交流会のパーティーで知った。
受付を済ませて着席すると、スタッフの女性が各テーブルを回り、参加者に挨拶しながらにこやかに何かの受け渡しをしているようだった。彼女が私たちのところに来たときにお金を渡し、小さな番号札を受け取った。札の番号は1枚ずつ違う。

私も同じようにしたほうがいいのかな?という素振りを見せると、夫は「いいよ」と私を制した。女性が去って、いったい何なのかと聞くと、くじ引きの券だと言われた。(2人分参加したということだったようだ)
「こういうのって会費に含まれているものって気がするけど、売るのか」と思った自分を、説明を聞いて「なんて器の小さい…」と恥じた。

ラッフルとは、チャリティーを目的としたくじ。1口(1枚)の価格はその時の主催者が決める。ウェールズ人交流会のときは100円、コンラッドのときは1000円だったそう。参加するもしないも、何口参加するかも、自由。目的が明示されていて、このどちらの時も「ウクライナ支援」だった。その目的に賛同する人がくじを購入し、売り上げは寄付される。

スポンサーの提供などで賞品が用意されていて、くじ引きタイムがパーティーの余興にもなる。賞品ゲットをめざしてギャンブル的に多めに買う人がいるかもしれないし、純粋な寄付のつもりで参加する人もいるだろう。
楽しみながら社会貢献するって、なんともスマートで素敵なしくみ。いいなぁ。

ウェールズ人交流会で購入したラッフルのチケット。
(数えやすいよう1~0の番号がふられた面。裏にくじ用のナンバーが)
ビンゴカードにいろんな種類があるように、いろんなスタイルのものがある様子。

ラッフルは英国のパーティーでよく行われるという。
「日本ではビンゴをよくやるけど、それと同じようなものだね」と言うと、「ビンゴはどちらかと言うと、娯楽のイメージのほうが強いかな。ビンゴ場みたいなところがあって、中高年の女性が友達同士で行ってみんなで楽しむ趣味みたいな…」と言われて、思い出した。

ずいぶん前、着物の話をしたときだったか、「二の腕の脂肪のたぷたぷを、「振袖」って自虐をこめて言ったりするよ。袖がすごく長い着物があるから、そのこと」と、日本語スラングを伝授した。

すると「それは英国でいう『ビンゴウィングス(Bingo wings)』だね」と夫。
ウィング=羽根と意味がつながって、笑った。映画のワンシーンが思い浮かんだから。

ノースリーブのワンピースでちょっぴりおしゃれして、「ビンゴ~~!」と両手をつき挙げている老齢のご婦人たちのビッグスマイル(あれがいわゆるビンゴ場なのだろう)。今考えたら、二の腕丸出しで、「ビンゴウィングス」をちょっと皮肉った英国ジョーク的なシーンだったんだと思う。何の映画か思い出せないのだけど、たしかに英国が舞台だった。

二の腕のたぷたぷをひゅんひゅん羽ばたかせて、空を飛ぶ笑顔のおばあちゃんたち。かわいい! 
ビンゴになってうれしくて、空にも舞い上がるよう…そんな気分がよく表れているお気に入りのスラングとして、「Bingo wings」は私の脳にしっかりインプットされたのだった。(それを本人たちに言っちゃいけないよと注意喚起された。もちろん言いません)

英国の大きな町には商業的なビンゴ娯楽施設があるのだという。施設がない小さな町でも、タウンホールなどでビンゴ大会が行われたりする。娯楽としてのビンゴのこともあれば、町のフットボールクラブが開催して売り上げの一部を資金にしたり、重病の子どもの医療費のカンパを目的として行われたりもするそうだ。

英国のチャリティー精神

英国では、チャリティーや社会的な貢献に大きな価値がおかれる。

宿泊券をいただいたパーティーというのも、在日英国商業会議所が主催する、社会的な課題に対し貢献した組織の功績を讃える催し(「ビジネス・アワード」)だった。

このアワードにノミネートされた夫のNPOは、イングランドを本拠地とする水難救助に関する団体。東日本大震災の津波被災地を視察し、輸送コンテナを救助艇(救命ボート)の収納庫にしたボートステーションをデザイン、そのボートとステーションを制作し、コンテナごと船で輸送して岩手県釜石市の根浜海岸に寄贈した。

岩手県釜石市根浜海岸に設置されたボートステーション。
運搬用のコンテナの内部が、救難ボートやスタッフの装備などの保管庫に改造されている。
この寄贈を機に地域のボランティアたちが海難救助グループを組織し、
定期的に訓練を行って、地元で開催されるトライアスロン大会の警備などにも出動している。

そのとき、このステーションを各地に設置して、地域のボランティアベースの海難救助ネットワークをつくる構想があった。でも、日本の海難救助にはいくつかの組織が複雑に領域を分けるシステムになっていて、そこに入っていくことはできなかった。

このプランのモデルとしたのが、英国の「王立救命艇協会(RNLI)」。英国では、日本の消防団のような形で地域のボランティアたちが沿岸警備に携わっているのだという。いざというときにその地域の人たちが出動する機動力と、地形や潮などの熟知という利点がある。なるほど。

RNLIがボランティアで運営されているのはすごいと思うし、それ以上に、運営費は寄付でまかなわれているというから、驚く。

英国のチャリティーといえば、個人的には、ダイアナ元皇太子妃がフェイスシールドをつけて地雷地帯を訪問していたシーンをすぐに思い浮かべる。
チャールズ国王とカミラ王妃も同様のようで、戴冠式に際して、駐日英国大使館で「新国王と新王妃の慈善活動への献身を反映し、戴冠と日本のボランティア団体の方たちを祝う」パーティーが催され、夫も招待された。

世界的にも日本の人々は思いやりがあると言われているし、「おもてなし」精神が日本を表すキーワードのようになった。でも一方で、困難に直面している人を冷たく突き放す「自己責任」という言葉が散見する。これは矛盾をはらんだ、日本の特徴的な傾向だと思う。

英国のチャリティー精神と日本人の思いやりの意識は、だいぶ違う気がする。その違いはどこにあるのだろう。

数年前、英国の義理の伯母がクリスマスプレゼントとして送ってくれたアドベントカレンダー。
12月1日からクリスマスイブまで、日付の窓を開けると、お菓子の代わりに
「今日あなたは〇〇という団体に寄付しました」という文言が出てくる。
購入価格の70%が24の団体に寄付されるしくみ。
このカレンダーを届け、私を社会貢献した気持ちにさせてくれるという
クリスマスプレゼントの演出もとても粋で、ありがたかった。
日本にもこんな商品があったら、きっと売れる思う。

助けてもらうから自分も助ける

考えてみると、英国では「共助」が社会構造に組み込まれているように思える。島国にとってきわめて大切な沿岸警備をチャリティーとボランティアベースで運営できるのは、社会のしくみの中に「助け合うのが当然」という理念があるからじゃないかな、と。

これを日本に置きかえたら、社会的な備えのために継続的にお金を出す人がいること、ボランティアに参加する人がいることを前提とする(あてにする)ことは、残念ながら私には想像できない。

すこし話がそれるけれど、一緒に暮らしている日本の公共の場での振る舞いにも、同じようなことを感じる。

夫と地下鉄の駅を移動していたとき、エスカレーターのない10段程度の階段の上から、大きなスーツケースを下ろすのに苦労している女性がいた。階段を上がるすれ違いざま、夫は「任せて」とスーツケースを彼女の手から取り、階段の下に運んでぽんと置いた。
そのまま何ごともなかったように自分の進路に戻ったので、その女性も私もちょっとあっけにとられた。ほかにも彼女をちらちら気にしていた日本人もいた気がするけれど、誰も手伝わなかった。

電車で座っているときに座席を必要とすると思える人を見つけたら、夫は素早く立ち上がって必ず席を譲る。優先席の対象となる人が見当たらなければ、優先席にも躊躇なく座る。もちろん必要とする方を見つければすぐに譲るし、譲るのは優先席でなくても同じ。

「なぜだか空いた電車で優先席に座らない日本人」という不思議な現象がある。まだ乗ってきていない優先席の対象者のために、席を譲っておく謎。私自身にも、優先席に座ることに得体のしれないためらいがあった。

この「ためらい」はやっかいで、私だけなのかもしれないけれど、席を譲るときにも発生する。「譲られたら恥ずかしいかもしれない」「一度座ってまた立つ方が大変って断られたこともあるし…」などという考えがよぎり、立つのが一拍遅れるので、譲れずに終わることもある。

譲られた側も断ったっていいわけだし、こちらも断られたら座っていたらいいだけなのに。

夫は席を立つのがとても速い。
「助け合い」に、ためらいがない。

逆に、私がとても具合が悪い状態で病院に行くため電車を利用しなくてはならなかったとき、夫は「彼女に席を譲ってくれませんか」と、座席に座っている人に頼んでいた。頼まれた方はおそらく初めての経験だったのだろう、驚いたように席を空けてくださった。私はろくにお礼も言えないほどぐったりした状態で、ありがたく席に座らせていただきながら、「これもありなのか!」と内心驚いていた。

いつも率先してできる範囲で困っている人の手助けをし、必要なときは助けを求める。
そうか。「助け合い」って、本来そういうこと。

英国の電車内。わんちゃんも着席していた。

慎み深さの反動

それに対して、日本人は「譲り合い」がとても得意なのではないだろうか。
災害が起こると、避難所でのマナーの良さに世界が驚くと聞く。お互いにスペースを譲り合い、順番を譲り合い、物資を譲り合う。自分の権利を進んでほかの人に分けられる人がたくさんいる。同じ日本人として誇らしい。

でも時として、この「譲る」精神は、自分の思考の権利をほかの人に与える形で作用してしまうのかもしれない。席を譲ることへのためらいは、「席を譲りたい」自分の思考より、「席を譲られたら恥ずかしい」と感じる(かもしれない)相手の思考を優先しているとも言える。

それが「慎み深さ」という美意識にもつながっているわけだけれど。

ただ、「譲る」という言葉には「自分の主張を抑えて他人の主張を通させる」という意味もある。やっぱり多くの人は、譲り合いながらどこかで自分の主張を抑えているのではないかな…自分をかえりみても、そう思う。その欲求不満が、「やりたいことをやって困難に陥っても『自己責任』なんだから助ける必要はない」という発想につながってしまうんだろう。

私たちも、「譲り合い」にちょっと「助け合い」の考え方をプラスできたらいいかもしれない。
そうなったら、「自己責任!」と叫びたくなる、そう言われることを恐れるピリピリ感がゆるんで、よりやさしい社会になる気がする。
――という考えに至り、「助け合い」が苦手で、勝手に夫にあれこれ譲っておきながらイライラしがちな自分を反省した。

英国で見た、大きな木に寄生する「ヤドリギ」(濃い緑の丸い部分)。
半分くらい自力で、半分は大きな木からエネルギーをもらって生きているという。
共生する植物たち。


英語スクールの講師だった夫は、東日本大震災が起こった後すぐに「Fund raising lesson(募金レッスン)」を立ちあげ、空き時間にボランティアでレッスンを行い、参加生徒からレッスン代として1000円を徴収して、被災地に寄付した。この受け身ではない行動を目の当たりにして、思い返せば、そのときに私は初めてチャリティーを自分ごととして考えることができたと思う。

だけど、こんなこともあった。

もう10年ほど前、一緒に夕食を食べていたとき、日本語がまだまだ拙かった彼がその日の出来事として話したことには。(基本は英語での会話)

「今日さ、電車で妊婦さんがいたから席を譲ったんだ。『ニンシンデス』って」。
 
「妊娠」なんて、ちょっと難しい言葉をよく知っていたものだと感心したら、その日に受けた日本語レッスンで学んだ新しい単語で、早速使ってみたらしい。
 
「そしたら、『(妊娠)してないです!!』って言われちゃった」。
 
……どんまい。

そのやりとりは周りの人にも聞こえただろうし、ひやっと空気が凍った車内の様子を想像して、申し訳ないけれど心の中でちょっと笑ってしまった。「妊娠です」って断定しちゃっているし…。

助け合い精神が裏目に出る、そんなこともある。

夫の不用意な言葉で気分を害してしまった、どこかにいらっしゃる女性に、夫に代わりお詫び申し上げます。彼には、妊婦さんかどうかの判断材料のひとつとして、マタニティマークを教えておきました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?