これの美味さが分からないとは

ある日のランチに、同期と一緒にパスタを食べに行った。

私がトマトソースのパスタを頼んだのを聞いて、彼女は「私、トマト苦手なんだよね」と言った。

アレルギーなどではないが、食感から何もかもがどうにも――と。


「好き嫌いをするな」と子供の頃に口酸っぱく言われた人も多いだろう。

しかし、程度の差こそあれど、ほとんどの人には何かしら嫌いな食べ物があるんだと思う。

彼女のトマトもその一例である。


食べ物の中にも、嫌いであることを共感されやすいものがある。

パクチーやレバー、トマトなどがそうだ。

まあ、嫌いな人が多く、また苦手な理由の想像がつきやすいものだ。

中でもパクチーは、それが嫌いだ、という話題だけで15分は場が持つ。

ある店で図らずもパクチーに遭遇してひどい目にあったとかなんとか。


反対に、嫌いな人が珍しいものも、案外と「へえ、そうなんだね」と受け入れられることが多い。

たしかに最初は「え?」とか「嘘でしょ?」というような反応をされることもあるだろう。

しかし結局は「人それぞれだよ」という当たり障りないところに着地する。

そういうものか、と受け入れるしかないからだ。


納得がいかないのは、嫌いというと顰蹙を買う食べ物があることだ。

私の苦手な食べ物はらっきょうと茶碗蒸しだ。

ある日の飲み会で苦手な食べ物の話題になったときにそのことを言うと「いや、それはさ――」と説教されてしまった。

曰く、子供っぽいとか、子供のときに克服しておくべきとかなんとか。


「共感を呼べる」ものは、みなが今なお嫌いなものだ。

「受け入れられることが多い」ものは、みなが今も昔も嫌いじゃないものだ。

その2つからこぼれ落ちる、みながかつて苦手で、今はそんなに嫌いではないものは、お叱りの対象になるらしいのだ。


きっと、そういった食べ物は、苦手であることを克服できるし、むしろ克服すべきだと思われているのだろう。

そしてその論拠は、自分も乗り越えられた壁である、ということ以外にはないのだろう。

その様は、飲み会でビールの美味さを滔々と語られる経験に類似している。

これは「もう俺は、それが苦手じゃない」マウンティングだ。

「これの美味さが分からないとは、お前もまだおこちゃまだな」と、そう言いたいわけである。


これに対して、どういうふうに嫌いかを仔細に語ってもあまり効果はない。

ビールの苦さや炭酸について述べて、「バカ、そこがいいんだろう」と返された人は少なくないはずだ。

あるものが苦手な人の語る欠点とは、それが好きな人にとっては往々にして魅力なのだ。

それに、口にしたときの感覚をわざわざ脳内で再現してまで、伝わりやすいように言語化してやりたくもない。

理由は明快――だって嫌いだからだ。


「食わず嫌いだろ。いま食べてみたら違うかもしれないだろ」

私が苦手な食べ物を答えたとき、そう言われた。

それもまたビールについてよく聞く「飲んでりゃそのうち分かるようになる」という言葉にちょっと似ている気がした。

しかし、わざわざ嫌いなものを食べたくはない。それに、話題に合わせて言っただけで、苦手であるが故に困っているというわけでも特にないのだ。


私の願いはただ一つ。

苦手を克服することではない。

「へえ、そうなんだ」で済まされることだ。

私はらっきょうが苦手で、茶碗蒸しも苦手だけど、嫌いな人が多いトマトやナスは好きなのだ。

それもまた「人それぞれ」で済ませてはくれないものだろうか。


【今回の一曲】

レミオロメン/ビールとプリン(2003年)


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