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「利他」とは何か/本当に相手のことを想うこと

「利他」の概念

私が「利他」という言葉を知り、考えるようになったのは、少し前に土井善晴先生、中島岳志先生の対談をまとめた「料理と利他」を読んだことがきっかけだ。本書との出会いはTwitterで見かけた中島先生による一文。

歴史に背中を押されながら、新しい時代に進んでいきましょう。
ー「はじめに」より

コロナの中で沈むニュースが多い一方、コロナになったからこそ、吹いてきた風がある。それを前向きに受け止める姿勢が素敵だと思い、手にとった。

本書では、土井先生の「誰かを想う料理」についての考えや中島先生の「利他」にまつわる考えが散りばめられていて、中島先生の考えについてさらに詳しく知りたかった私は「「利他」とは何か」という関連書籍を手にとった。

「利他」という考え方は私が日々ずーっと考えている「誰かにやさしくあること」というテーマについて、整理するきっかけを与えてくれた。今日はその気付きについて、まとめておこうと思う。

「「利他」とは何か」を通じて考えた「やさしさ」

やさしさ、についてはやっぱりずっと考えていることであるから、これまでも何度かnoteでも触れてきていた。

私にとって、「やさしさ」とはこれまで比較的一義的で「人と接する際、相手の状況をできる限り想像すること、その上で自分自身が完全に理解できることはないという前提で接すること」だった。おおよそこれはぶれてはいないのだが、本書からよりプラスアルファの気づきが以下のように3つあって、最近はこれらを意識して行動するように心がけている。

①やさしくあろうとすれば「利他」が実現できるわけではない
②「相手のことを思って行動すること」と「同情」の線引きは意識して行うこと
③「ありがとう」は言い過ぎない

①やさしくあろうとすれば「利他」が実現できるわけではない

例えば、こんなシチュエーション。

Aさんと仕事をする中で、Aさんが仕事のモチベーションが下がっていることを私は知った。だが今Aさんと一緒に行っているプロジェクトのクライアントはいつもお世話になっているロイヤルカスタマー。自分としても非常に恩義を感じている会社だからこそ、期待されている以上のアウトプットを出したい。だがAさんはそれについて来れないでいる。

「「利他」とは何か」のなかで第一章を執筆された伊藤先生は以下のように書いている。

「利他」とは、(中略)こちらからの善意を押し付けるのではなく、むしろうつわのように「余白」を持つことが必要である

もし私がAさんに対して「利他」を発揮するのであれば、私はある程度Aさんに意見は言うが、最終的な決定や行動は余白を持ち、彼女に決めてもらうべきだろうと思う。仕事に対する考え方なんて、ひとそれぞれだから。できるだけそうしたい。だが、そうしたときにクライアントへ報いることが難しくなってしまう。
これまで、私は自分が「やさしくあろう」とするスタンスで1人1人と向き合うことさえできれば、きっと誰とも心地の良いコミュニケーションをとれるはずだと考えていたが、ふと立ち止まってみたらそういうわけではなかった。接しかた以上に相手に余白をもたせて、自由にできる環境を作り出すこと、その環境下でも誰もが納得できるアウトプットを出すことがよりやさしくあるためには求められるのだと思い知ることとなった。

②「相手のことを思って行動すること」と「同情」の線引きは意識して行うこと

「誰かに何かをしてあげたい」という気持ちは自己満足でしかない、と往々にして言われる。先述に余白の話を書いたが、余白なしで相手に何かをし続けてあげることは特に自己満足なんだろう。一方で私は以前からそういった自己満足ではない、ふいに行ってしまう思いやりのある行動もあるとも思っていた。例えば疲れた母にご飯を作ってあげるとき、私は見返りを求めているだろうかと。うまく言葉にできないそれは一体なんだろうかと考える中で中島先生の以下の言葉に出会った。

親鸞は『歎異抄』第四条で慈悲にはふたつある、という言い方をしています。善いことをしようと思ってする聖者の行いが「聖道の慈悲」で、浄土からおのずとやってくるのが「浄土の慈悲」です。

中島先生は「浄土の慈悲」を「オートマティカル」なもの、とも話している。「ふいに」「ふと」無意識に行ってしまうものだと。この言葉に出会い、やはり自分の思う「自己満足ではない思いやり」はあるんだと思うことができた。
一方でこれまで以上に自分の行いは「浄土の慈悲」か「聖道の慈悲」か気づいたときに立ち止まれるようになろうと思うようになった。「聖道の慈悲」は時として、余白を奪ってしまうほか、相手との対等な関係性を阻害するはたらきをしてしまうからだ。(これについては中島先生も以下のようにお話されている。)

これは、「ピティー(pity)」(哀れみ)という問題に関わりがあると思います。哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して一種の支配的な立場は生まれてしまうのです。

東日本大震災のときに被災地を訪れたボランティアをあたたかく受け入れた人々がいる一方で、快く思わなかった人も多くいるという。これはきっと「被災していない無事だから助ける人(支配する人)」と「被災を受けたかわいそうだから助けられる人(支配される人)」の構図が生まれてしまったから。仕事や普段のコミュニケーションをとるときも同様なことは起こりかねない。自分の「やさしくある」ためのスタンスを貫くためにも改めて気をつけたほうが良いポイントだろう。

③「ありがとう」は言い過ぎない

これは先述の「浄土の慈悲」にも繋がるが、無意識に行った行動に対してもらう「ありがとう」は違和感を覚える事が多い。「ありがとう」をもらってしまうと不思議と「やってあげた」「やってもらった」関係が生まれてしまうからだろう。言っている方は本当に感謝の気持ちを伝えているはずなのに変なものだ。本書ではヒンディー語には「ありがとう」という言葉はもともとないのだと書かれていた。誰かのためを思う行動はおのずとやってくること、つまり「ありがとう」という返礼が必要なものではないという考えが根底にあるからのようだ。相手のさりげない「利他的な行為」が行われたときに「ありがとう」を言い過ぎないことも感謝を伝える1つの姿勢なのかもしれないと考える一文だった。

「やさしくある」ために

ここまで自分の考えや今後の行動の指針としてまとめはじめてみたが、どうもうまくまとまっている気がしない。まだまだ自分の中で改善できる余地があるからなのだろう。①にも書いたがやさしくあるためには、自分の態度だけではなく相手の状況をどう作り出すかも非常に要になってくる。
これまでできていなかったことを受け止めて、改めてどんなコミュニケーションが求められるのか、考え直していきたい

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