25歳初夏。誰かの安寧を失わせないために
久しぶりに自分の思想や、生き方についてのnoteを書く。
兵庫に来て、2ヶ月。行く前から行くと決めたときから、多分ずっと道に迷っていて、それが少し整理できた気がしているので、昨日友人に話したままに記録する。
「自分でやりたいことはない」これは将来の夢などを聞かれたときに応えていた常套句で、ずっと事実であり、また言い訳でもあった。
「自分でやりたいことってあんまりなくて。誰かの力になれてると感じられる方が頑張れるんですよねぇ」
これは本当に本当のことで、今も変わらない事実だ。
一方で様々な手助けできる場面が目の前に並んだときに、自分が優先して力になりたいこと、何かを理由に携わることを諦めたくないことが最近より明確になってきた感覚がある。
私はこれまでの経験から「不可抗力で安寧が失われること」がとても怖い。それは私がこれまで自分が抗うことができないままに失われてしまった大切な時間や居場所があったことが大きく起因している。
私はこの根底の恐怖心から、失われかけのまちに関わる生き方に関心を持ったのだと思う。まちやそれを形作るお店や駅、家に公園などはきっと誰かの心安い時間や安心できる時間を作っているから。自分が安心して、落ち着いて、いるだけで幸せだった場所がなくなっていくということを度々経験したことで、もうそんな時間は自分にも他人にも訪れないでほしいと切に願っているのだ。
失われないようにするためにできることは思っているよりもたくさんあって。でも大体が諦念の気持ちによって見過ごされている。結果的に失われてしまったとしても私は足掻くだけあがいたことで、その時に後悔や怖い気持ちがなく失われるのであれば、それも1つの良い終わりだと考えている。
しかし抗い方が分からなかったり、力不足で抗いきれないこともある、そしてその結果諦めてしまうこともある。そんな人たちのことを、私は一番優先順位高く手助けしたいのだと最近はっきり分かってきた。
少し別の話になるが、先日友人たちと話す中で、まちの「課題」を「ポジディブ」に捉えて面白がっていく、その先によりよい暮らしを作っていきたいという彼らの考えを聞いた。
私は失われるを減らしていく、というマイナスを0に、の意識が強いが、さらにそれをマイナスと捉えずにプラスに、より幸せに作り変えていくというのも、とても素敵な考え方だなと感じた。
結局は理由があって失われるものを止めるはできない。
なくなって終わり、寂しいね!と結末付けるのではなく、なくなったけど、こういう形で存続して、大事なことは守られましたという結末に持っていくという発想は意識はしていなかったが確かにあったし大事にしていた視点だったなと気づいた。自分の考えが深まった感覚がある。
ここまで書いてみると、どの思想も断片としては常に自分の中はあるが、繋がらないと言葉や理由として自分を動かせないなあと改めて思う。自分の考えていることや感じていることに気づくことは本当に難しい。
長くなったが、夏が始まって、嬉しいことに携わらせてもらってきたプロジェクトが少しずつお目見えする時期が近づいてきている。
地域に生きているからこそ、より自分ごとと感じている感触もある。
友人たちの企みにのっからせてもらいながら、私は私で「誰かの安寧を失わせないためのちから」を少しずつ蓄えていく夏にしていきたい。
ほんとにほんとにありがとうございます…!